2015年10月06日

私たちの記憶は二次元まででは、という話

三次元を記憶出来るだろうか。

頭の中で、三次元立体である人体を回転させ、
どの角度でも頭の中で思い浮かべられるだろうか。
アニメーターや漫画家や画家にとってのこの基本技能は、
恐らくはほとんどの人にない特殊能力だ。

IQテストでも複雑な立体の回転問題がよく出るけど、
僕は間違ったことがない。
でも問題であるからには間違う人もいるということだろう。
つまり、頭の中で三次元モデルがあり、
それを頭の中で操作できる人は多くない。


二次元のシャシンまたは絵が時間的に変化する、
映画、ドラマ、アニメを考えよう。

我々はその変化を覚えられるか?
覚えられ、再現できるのは一部の人だけだ。
アニメーターになるにはこの能力が必要で、
宮崎は動きを記憶して再現できない若手が多すぎると嘆いていた。

ダンサーに至っては、三次元の動きを記憶するわけだから、
四次元の記憶を持つことになる。
ところが四次元でも三次元でもなく、体をこう動かすという、
技(トリック)の順番を覚えるだけだから、
記憶構造としては一次元に近い。


さて、二次元のシャシンの動きを覚えられるか?

頭の中で上映出来るか、ということだ。
何度も何度も繰り返し見た映画は出来るかも知れない。
例えば僕はナウシカの殆どの二次元+動きの三次元的記憶を持っている。

しかし一回だけ見た映画なら、
ほぼ静止画の記憶だ。
しかも全カットではなく、
一部の静止画だ。
これとは別にストーリーラインや台詞やテーマという形で、
言語的に記憶されている。

言語はいうまでもなく一次元だ。

ということで、
僕らの、映画の記憶は、二次元までだ、
という仮説が成り立つ。


シャシン的なイコンと、一次元的文章でしか、
我々は映画をほとんど再現できない。


しかし、脚本を書くとき、映画を作るときはそうではない。
三次元の時間的な動き、四次元を考え出さなければならない。
しかも、一人の人だけではなく、
複数の人の四次元的要素をだ。

さらに、外面的に見えることと、
内面で見えないこと(隠された動機、秘密、目的、哲学など)
をも作らなければならない。

四次元以上のことを、
我々は頭の中で作り上げなければならないのだ。

つまり、映画や現実では行われている、
四次元の事象は、我々には二次元以下に次元を落として記憶される。
だから、映画的なストーリーを創造することが難しいのではないか。


昨日のロケハンで、
カメラマンがロケ地の地図を書き、
ステディカムの動きを矢印で書いていた。
今回の撮影は全編ステディカムなので、
そういう特殊なやり方をしないと理解記憶が進まない、
という本能的な部分でそうしたのだろう。

地図に矢印を書き込むのは二次元だ。

我々の理解は四次元だが、
それを二次元に次元を落としている行為なのである。

一端理解すれば、その二次元から四次元に戻せるのだろうけど、
四次元を理解していない別の人がその地図を見ても、
四次元を復元出来ないに違いない。


我々は、頭の中で創造した、四次元の物語を、
文章という一次元に落とす仕事である。

脚本を読む人は、一次元から四次元を復元しなくてはならない。

頭の中の映像を録画出来る機械が出来るまで、
このやり方は最も合理的であり続けるだろう。


あくまでも経験則なので、
これを研究している脳科学者いるのかな。



物語や現実は四次元だ。
映写は三次元だ。
3D映画は自由に動ける四次元ではなく、
飛び出るだけのZ情報付加の三次元、拡張三次元に過ぎなかった。
記憶は二次元。
文章は一次元。

我々は、これらを組み合わせて、
物語を観客の脳の中に四次元で構成することが、
最終目的である。
posted by おおおかとしひこ at 11:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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