という検索ワードがあったので、書いてみよう。
三人称でその人の内面を表す方法のまとめ。
一人称でその人の内面を表すのは簡単だ。地の文で書けばいい。
厳密な一人称では、主人公の目からカメラを動かせないが、
ゆるい一人称なら、主人公から見た目と三人称の見た目を、
自在に行き来する。
三人称の見た目で書いておきながら、
急に内面を描写しても、現代では不自然だとは思われない。
(おそらく本来の用法としては間違ったまま、
それがスタンダードになってしまったのだろう。
逆に厳密な三人称小説では、内面を地の文で書いてもダメだ)
さて、芝居や映像では、
「外から見たこの人の内面」を想像させなくてはならない。
これは厳密な三人称表現ということだ。
レベル0: 独白
お芝居の長い独白、ナレーション(心の声)を被せるのは、
伝統的な独白形式だ。
独り暮らしが増えた現代では、独り言が増えた。
使いどころは限定したい。
映画ではナレーションは冒頭とラストのみ、というパターンが多い。
また、記録媒体への記録、という体で、
独白をするときもある。
ビデオレターの録画、留守番電話、手紙や日記を書くときの独り言、
(メールを書くときの独り言は、手紙や日記ほど自然じゃない気がするよね)
研究者がICレコーダーに観察結果を吹き込む、
事前に言うことを練習しながら、
などは、三人称の芝居で独白をするときのひとつのテクニックだ。
誰かに言うふり、神に告白するふりをして、
独白にする、というやり方もあるだろうね。
漫画では独白ナレーションという厳密三人称表現にはない表現がある。
特に少女漫画は、地の文並の量だ。
これは映像や芝居にはない。
(だから三月のライオンの映画化は失敗すると予言しよう)
いずれにせよ、独白は物語には向かない。
物語とは、他者とのコンフリクトだからである。
さて、ここからは芝居論だ。
脚本というものは、芝居の指示書だからだ。
正確に言うと芝居の逐次指示ではなく、
芝居をするための文脈が書いてあるものなのだが。
レベル1: 感情を示す芝居
たのしければ笑う、怒れば怒鳴る、
悲しければ泣く、悲痛なら叫ぶ、
などなど、
いわゆる、心を形で表現する、基本形である。
表情でなくとも、
おどける為におもしろいポーズをする、
友情を示す為の握手、
友愛の証としての額へのキス、なども基本形だ。
素人が「演技」というものを理解するときは、
このレベルの話をする。
ここは悲しいのだから悲しい顔をするものだ、
ここは嬉しいのだから嬉しい顔をするものだ、
という考えだ。
勿論間違ってないが、理解が浅い。
まあ、字をちゃんと書ける、という子供レベルの話だ。
字を書けないと困るので、
これぐらいはとりあえず全部出来るのを以下では前提とする。
何故子供レベルか。
人は常に感情どおりを表情に出すわけではないからである。
むしろ、感情を出さないことが表現になるからである。
辛いが子供の前では顔に出さない大人や、
嬉しいけど喜んだ顔を出すと負けだから、とか、
感情を抑えて仕事に徹するとかの、
複雑な感情を、
子供レベルでは表現出来ないからである。
ツンデレもそのひとつだろう。
内面の感情と外面は必ずしも一致しないのが人間だ。
なおこのレベルだと、
「顔は笑顔なのだが怒りに拳は震えている」
なんて表現がある。
外面的なパーツの矛盾で、それを示すというやり方だ。
僕はこれはまだ子供レベルの芝居だと思う。
ここ以降から、ようやく中級者の芝居だ。
レベル2: 小道具
まいどまいど全部、人間を使う必要はない。
物を使ってもいい。
無表情でも、
銃を向ける、離婚届をつきつける、
結婚指輪を渡す、餅つき(や仕事)での阿吽の呼吸、
堂に入った仕草(職人、農作業、いつもやり慣れていること)、
毛布をかけてあげる、
などは、
それをする人の内面を雄弁に代弁する。
これらは一人でなく複数人にも発展させられる。
例えば、葬式で祭壇をめちゃめちゃにする、とか、
誰かの思い出の品をその人の前で叩き壊すのは、宣戦布告の意味になる。
脚本添削スペシャル「ねじまき侍」では、
自分の大切な刀を河童にあげる、という小道具による内面の表現
(文字にするのも野暮だが、友情)があった。
小道具の使い方が上手なのは、
上質な映画の基本だ。
何かをモノに象徴させると、そのあと色々使いやすくなるだろう。
たとえば銃は殺意の象徴だから、
その銃を降ろせば殺意がなくなったことを表現できる。
これが思い出の品なら、銃を捨てることは殺意を捨てることではなく、
思い出との決別を意味するだろう。
なにを象徴しているか、一般的な場合と、その話の特別な場合があるだろう。
レベル3: 文脈
ここからがようやく芝居の真骨頂である。
台詞で嘘をつくのだ。
「ありがとう」と笑顔で言いながら、それは殺すという意味だ、
という芝居をつくることは可能だ。
殺意のある文脈を以前につくっておいて、
表面上は仲のいいふりをするがいつ殺すか分からないよ、
という場面をつくればいいだけだ。
京都人が「お茶漬けでも食べていきなはれ」と笑顔でいうときは、
「晩ご飯の時間だから、そろそろ帰れ」という意味である。
レベル4: 動作、行動
無言での行動が、その人の内面を示すことが、
映画の真骨頂だと言ってよい。
それは、それまでの文脈全てがそこに集約するからよいのである。
その動作、行動は、その意味になる、と全員が分かるのは、
これまでの文脈の積み上げによる。
主人公がその場に行けば殺されると分かっていても、
友情の為に無言でその場へ赴く、なんてのは古今東西使われてきた手法だ。
泣きながら親友に向かって銃の引き金を引く、なんてのもよくある手法だ。
僕がよく例に出すのは「きみが僕を見つけた日」のラストシーン、
夫の服を丁寧に畳む無言の芝居だ。
これまでの万感の思い(夫への愛情、出会いから未来へのストーリーすべて)が、
その小さな動作から全て伝わってくる。
これが芝居というものである。
T2のクライマックス、溶鉱炉に入って親指を立てる名芝居は、
どんな雄弁な台詞や表情よりも、
ターミネーターの人間としての内面をよく表している。
こういう表現、すなわち、
「これまでのことを、ひとつの動作であらわすこと」
を、考えつきたいものである。
外面的なストーリーのこと(溶鉱炉に入り、チップを溶かすこと)と、
内面的なストーリーのこと(自己犠牲こそ人間であり、
ロボットは人間になれる可能性がある)を、
たったひとつの動作で。
なぜなら、それはワンアクションであり、
映画とはアクションだからだ。
最近の例だと、「夫に抱かれた妻が微笑む」という何気ない仕草が、
映画のファーストカットとラストカットで真逆の意味をもつ、
「ゴーンガール」という佳作があった。
(これが全く同じショットだったら天才的だったのに、
違うテイクと聞いて失望したものだ)
動作や仕草に意味を見いだすのは、
文脈を理解している、我々観客なのである。
僕はよく暗示させる、というが、
それは作者からの目線であり、
観客からは読み取る、という目線だ。
その文脈でこうするのなら、それは明らかにこういう意味である、
ということを、
作者と観客がその場面で共有できているとき、
意味が発生するというものだ。
ハリウッドには、「最良の芝居は、無言である」という格言がある。
それはこのことを意味している。
また、一言の台詞、というのもこれに近いと思う。
ロッキーのラストの「エイドリアーン!」もそうだし、
ターミネーターのラスト、「The storm is coming.」「I know.」も、
今来ている嵐(ガソリンスタンドの親父)のことではなく、
未来の戦争のことを言っている(サラコナー)のは明らかだ。
だからしびれる。
そういえばドラマ「風魔の小次郎」のラストシーンでは、
風に吹かれて倒れそうになり、前を向こうとした姫子を、
後ろで小次郎がささえて微笑むのであった。
三人称の内面の表現には、色々なレベルがある。
適宜、使い分けられたい。
なお逆に一番下手なのは、自分の内面や思っていることを延々説明する、
説明台詞である。
(糞キャシャーンの演説とか、糞ガッチャマンの俺はなんとかを否定するとか)
2015年10月07日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック