いらっしゃい。準備は出来ていますよ。
ちょっと揺れるので、シートベルトをつけましょうか。
が、正しい。
あなたはいつも、誰にもわかってもらえない。
誤解され、真のいいところは誰も知らない。
それを必死で書いても、
誰も読み取ってくれない。
みんなが誤読し、本当に理解して欲しいところは、
誰もが軽く読み流してしまう。
だからなるべく多くの人に訴えようとする。
100人の中に理解者がいないのなら、
100万人の中にたった一人でも分かってくれる人がいるのではないかと。
それは、間違いである。
誰か少数の人でもいいから、
俺をわかって欲しいというのは、
プライベートでやりなさい。
芸術というものの源泉はそれだとも思うので、
100%昇華してはならないが。(リア充は創作をしない)
まあ幸せになって創作から足を洗うというハッピーエンドも、
人生にはある。
作品内で認めてもらうとか、分かってもらうなんてのは、
甘えである。
あなたは認めてもらえていない現実を、
作品で恨みを晴らしたいのだ。
ちょっと引いた目で見てみよう。
僕は男なので、凄いブスを想像する。
女の人は凄いキモヲタを想像してくれたまえ。
普段認めてもらえていない人が、
訳のわからない作品を持ってきて、
これで私を認めてくださいと言っている様を。
それがあまり面白くないものの場合を。
それが沢山沢山いる様を。
キモイと切って捨てるのが普通だ。
認めてもらえていないルサンチマンを、
作品に入れ込むのは、得策ではない。
面白い作品というものは、
尖った槍を突きつけて来るものだろうか?
面白い作品というものは、
なんだか面白そうで、
いつの間にか引き込まれていて、
気づいたら夢中になっているものではないだろうか。
(勿論、尖った槍がその中にあって、
単なるお遊びじゃねえんだぞ、
という本気の矜持をも見たいものである)
押しつけではなく引き込みである。
引き込んでから押し付けてもダメだ。
引き込んでからのち、押し付けたとしても、引き込まれ続けているようなものを、
あなたは作らなければならない。
具体的にはどうすればいいのか分からない。
ただ、あなたの中で、認めてもらうとか、分かってもらうとか、
思っている限りはそれは上手くいかない。
やあいらっしゃい。外は寒かったでしょう。
こちらに暖かいスープがありますよ。
もうちょっと火の方へどうぞ。
ああ、これから揺れますので、
シートベルトつけて下さいね。
では、地獄へ入ります。
終わったら家へ帰れるから心配なく。
揺れが収まったら終わりです。
さあお楽しみタイムですよ。
なんて感じの方が、きっと面白いと思う。
これを人間関係で出来るのがサービス業、
作品で出来るのが作家という。
サービスをせよ、と言っている訳ではない。
莫大な中のわずかな人と繋がるための作品よりも、
すべての人を物凄く面白がらせる作品の方が、
いいというだけの話。
(まあまあの人をぬるく面白がらせるのは、僕は詰まらないと思う)
2015年10月13日
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