2015年10月14日

ピークはクライマックスであるべき(はじまりのうた批評2)

当たり前なんだけど、ついつい忘れてしまうこと。


はじまりのうたのピークはどこだろう。

僕は、二人イヤホンの「デート」のラスト、
今ここが真珠だ、
というシーンだと思う。

残念ながら、
これを越えるピークがなかったのが、
この映画の終わり方が分からないポイントだ。


第二ターニングポイントはどこか?
が、見えていない。
つまり、この映画のクライマックスは何か?だ。
彼女の元彼が、
彼女のアレンジで歌う場面か?
音楽的にはピークだが、
それがストーリーのピークか?
そうではなかったから、
この話のピークが見えないのだ。

当たり前だよね、元サヤという運命が決まっているのだとしたら、
真ん中が一番美味しくなるよね。

元サヤに戻るのは変わらず、
二人がセックスしても良かったんじゃないかなあ。
感情のピーク、お話のピーク、表現のピークが、
クライマックスに来るべきなのが映画だ。

とても分かりやすいロッキーでは、
ボクシングからのエイドリアーンだ。

ピークがクライマックスに来なかったところ。
この話のクライマックスが何か分からないところ。
主人公の一番の本音がクライマックスで明らかにならないところ。
すなわちこの話の意味、テーマが分からないところ。

基本通りの、ここがヤマになってなかったのが、
いまいちな読後感の正体だと思う。


ヤマが一番の山にならないとね。
結果論かも知れないが、
山は中間部だった。

そうやってビートを外すオフビートがオシャレだった時代は、
ちょっと過去になってると僕は思う。
今は真のオンビートが求められている気がする。
posted by おおおかとしひこ at 16:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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