2015年10月15日

現実と音楽、現実とフィクション(はじまりのうた批評3)

ぼーっと考えていて気づいた。

僕の思う現実とフィクションの関係、
つまり勝利のスタイルが見えない現実に対して、
物語が創作的結論を作るべきだ、という理想に対して、
「はじまりのうた」は、
「音楽」でそれをやってしまっている、
ということに気づいた。


つまり、
音楽をつくる人から見ると、
現実が辛いから、
音楽に、僕の言うフィクションの夢を持たせるのである。

僕のピークだという、
中盤の二人イヤホンのシークエンスは、
台詞でそれをやっているから映画になっている。

しかし、ラストは、
台詞や芝居では映画になっていず、
その代わり、
主題歌がそれを全て表現したのだ。


つまり、音楽(主題歌)をつくることに力を入れすぎて、
物語のラストを、
その主題歌に任せてしまったのではないか。

それぐらいあの主題歌は良かったよ。


つまり、
現実と物語の関係性であるべき映画を、
現実と主題歌の関係性にしてしまったのが、
「はじまりのうた」の欠点だ。

「セッション」では、
ドラムの楽曲ではなく、
二人のバトルという映画的な物語だからこそ、
ラストがかけ上がった。

「はじまりのうた」では、物語に託さず、
主題歌に託してしまったのではないか。



ハッピーエンドにするなら、
男が会社を辞めてまた新レーベルを立ち上げる、
で終わるべきだし、
ビターエンドにするなら、
元サヤに戻る直前の、二人の別れで終るべきだ。
(「ビフォアサンライズ」の、二人の苦い別れのラストのように)

そういう、人間の決定(行動)こそが、
意味を持つのが映画的物語である。

主題歌に託すのは、映画ではない。

「プリティウーマン」は両方をなしえた奇跡的映画で、
物語的ラストも、主題歌も両方いい。
そうなれば完璧だったのにね。


脚本監督は、元ミュージシャンらしい。
ミュージシャンじゃなかったら、
そうするべきだと判断出来ただろうけど、
最後の最後に得意な音楽に頼っちゃったんだねえ。
力点を間違えたというか。

映画においては、
物語が音楽より立場が上だ。
音楽を物語より立場が上にしてしまったのが、
たいへん惜しい作品だった。


サントラがいいのはそのせいかもね。
posted by おおおかとしひこ at 09:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック