2015年10月18日

台詞の応酬をしながら、ストーリーを進める

台詞の応酬がいくらでも書ける、
つまり、他人の思考様式と他人の思考様式があり、
それらが何かが違うことで揉めたり一致点を探したりすること、
が出来るようになったら、
あとはどこかでストーリーを進めるだけである。


ストーリーを進める、というのは、
既にプロットに書いてあるようなことだ。

たとえばてんぐ探偵「弟子のひとり立ち」では、
そこにシンイチ登場とか、
最初は誉めてみるとか、
次の日の稽古場とか、
カラオケにいくとか、
アパートが火事、
とかだ。

これらは一種の歴史だと思うとよい。
あなたは歴史を一端定めたら
(プロットを書いたら)、
ストーリーの最初にタイムスリップするのである。
そして、それを初めて体験する複数の人として、
台詞を応酬すればよいのだ。

台詞の応酬はその人々になりきるのだが、
あなたは歴史を進める人にも同時になる。
台詞の応酬を、
迎えに行くようにしたり、
真逆にしておいて突発させるかは、
演出(話をどう見せていくか)次第である。

プロットを大まかに決めておく理由がこれだ。
あなたは執筆中は、
それらを初体験する登場人物になりきるため、
その先を知らないのだ。
その先がどうなるか作っていないなら、
登場人物は反応しようがない。

時々、登場人物たちが勝手に動いてプロットを作っていくこともある。
しかしそれは大抵場当たり的で、
計画的なストーリー性は薄い。
さらにまれに、そうやってぴたりと収まる話に仕上がることも、
実際にはあるというものだ。
(たとえばドラマ風魔の陽炎の最期は、
壬生の霧氷剣に殺られるとは決まっていたが、
その死に様、「ああめんどくさいめんどくさい!」までは決まっていなかった。
俺の中の陽炎がそう言って死んでいったのだ。
同様に、壬生の最期の台詞「先に眠る。我が友よ」も、
執筆の場で生まれたアドリブである)


いずれにせよ、
台詞の応酬と、ストーリー進行は、
別々の源から発生するが、
出来上がったものは混ざりきったものである、
ということである。


ひとつだけ問題がある。

ストーリーの立ち上がりの時が、
なかなか台詞の応酬にならないことだ。

最初の台詞をどう出せばいいか、かなり迷うと思う。
まあ、キャラがまだ完全に憑依しきっていない、
不馴れな部分もある。

この為に、バックストーリーがあるのである。
はじまった時点が0スタートではなく、
既に何らかのことが起こっている途中だとすれば、
主人公たちはそこに巻き込まれていくだけでよい。
つまりバックストーリーはスターターだ。

大人数でやる縄跳びを思いだそう。
主人公がいて、縄が回り始めるのではない。
既に回っていて何人か飛んでいる縄跳びに、
どこかで主人公が入るのである。



台詞の応酬がいくらでも書けたら、
あとはストーリーの中に放り込めばいい。
その為に、プロットとバックストーリーが準備されているのだ。
posted by おおおかとしひこ at 12:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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