ストーリーの流れとか、勢いとかで呼ばれる、
とらえどころのないもの。
それは、柱にもト書きにも台詞にも書いていない。
表面上に現れる、文字面にないものから、
流れは現れる。
つまり流れとは、我々観客の「読解」のことである。
読解とは何か、うまく言えないのだが、
この人はこう言うのだからこういうつもりなのだろうということや、
これからこうなるだろうという予測や、
ここにこれがありあそこにあれがあるという空間認識や、
きっとこれはこういうことを言おうとしているのだろうという、
「あるものからないものを読み取る力」のようなことだ。
日本語では行間を読むなどと言われる部分だ。
あなたは見る側のとき、
その行間を読解しながら、
お話の世界に入っていくはずだ。
それを、書くときには結構忘れている。
あなたは、克明に世界を描写しなければいけない訳ではない。
あなたは、克明に説明しなければわかってもらえない訳ではない。
あなたは、読解されるように書くべきだ。
行間を読まれるように書くべきだ。
表現というものは、
表現そのものと、
表現の内容がある。
表現そのもの(台詞やト書き)で、
表現の内容(おはなし)を表現するのである。
そして、表現そのものより、
表現の内容が大きいものである。
その差分が、
自然に埋まるのが読解だ。
流れや勢いというものは、
その差分が適時埋まり続けて行く、
快適な状態のことを言うのではないかと思う。
流れは文字に書いてない。
行間にある。
行間を読み取る楽しさの中にある。
そしてあなたは、
表現そのものと表現の内容の差分から、
(読み取りやすい)行間をつくるのだ。
2015年10月27日
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