2015年10月28日

実写「進撃の巨人」原作漫画との比較論

ということで、ようやく原作漫画「進撃の巨人」が漫画喫茶で一気読みできたので、
糞実写版との比較論を試みてみる。
なお、僕はアニメ版を見ていないので、そこのところは勘弁してもらいたい。

さて、
結論から言えば、
実写版脚本の渡辺雄介と町山智浩は糞だ。
それだけは確信する。


以下原作ネタバレです。



原作の構造をどう一言で捉えるかで、
「この物語はどういうことか」が把握できると思う。

僕は、
原作版は、「同期もの」という構造だと思う。

同期とか、クラスものに近いと考える。
そういう意味では、学園ものに近い。

「漂流教室」とか「スターシップトゥルーパーズ」のような、
あるクラスが危機を乗り越える大枠で、
主人公やその他の秘密が明かされたり、
関係が進展してゆく、というスタイルの物語だと。


科学者の秘密を埋め込まれて何故か巨人化できる主人公エレンと、
ツンデレの飼い猫のようなミカサの関係を固定軸に、
必ず食ってかかる顔の悪い奴や、
弱気だが作戦立案がうまい奴や、
理不尽に死んで行った奴や、
ちょっとずれてる田舎の大食い女や、
ちょっとずれてるメガネの研究者スタイルの教師や、
人類の命運を背負った秘密を知るお嬢様や、
何故か巨人化する奴が三人もいたりする。

最近読んだ漫画「ぼくらの」も同じ構造だと言っても良い。

何故この同期だけこんなに巨人が集中するのかは謎だ。
それを物語上の御都合主義だとしよう。
なんらかのあとづけ説明は入るかも知れないが、
とにかくこの「クラス」は、
奇跡のクラスなのだ。


いわば、学園ものと構造は同じだ。
同じクラスに変な奴やすごい奴がいて、
そのクラスが戦場に出ただけの構造なのである。

そのクラスの連帯感が、テスト勉強や学園祭ではなく、
新兵訓練や夜にベッドで素性を話すことや座学で、
起きているだけの話だ。



さて、実写進撃の巨人は、この構造を理解していない。
それが糞だ。

二時間でできない?
「スターシップトゥルーパーズ」や「フルメタルジャケット」、
「愛と青春の旅立ち」「トップガン」など、同工異曲のものは沢山ある。
それがベトナム戦争や対ソ連でなく、
壁と巨人の世界に置き換えただけのはずだ。


では、原作版のテーマはなんだろう。

まだ完結していない作品だから、
創作するか、どこかで書いてあったものを流用するしかない。

僕は「世界は残酷だ」というところが印象に残った。
「残酷だとしても生き続けるしかない、外の世界を見るまでは」
という、抑圧された人間としての、解放を待つ気持ちだと思った。

だとするならば、
「この異常なる世界の構造を解き明かすこと」
(「マトリックス」「ダークシティ」や原作「風の谷のナウシカ」のように)、
または
「この異常から脱出しておさらばし、自由の世界へいくこと」
(「ダンスウィズウルブス」「ブレードランナー」「THX1138」
「トレインスポッティング」「スラムドッグミリオネア」「アヴァロン」のように)
のどちらかが結論になるはずだ。

そして、制作費がものすごくない以上、
後者が結論にならざるを得ない筈である。


とすると、前段は、
抑圧された、残酷な世界を徹底描写しなければならないはずだ。

巨人におびえ、縮こまり、恐怖で時に殺し合い、
希望を持った同期すら闘う前に死んでしまう、
そんな残酷さを描くべきだ。
(オリジナルも加えてね)

そこからの脱出作戦がクライマックスに来るべきであり、
決して巨人化プロレスがクライマックスには来ない。

おそらくボス的な巨人(ビジュアル的には超大型巨人か)
との決戦がクライマックスになり、
全員死亡の中、エレンとミカサだけが脱出に成功し、
外の世界というより恐怖の世界で自由を勝ち得、
新世界のアダムとイヴになる(かも)、というエンドでよいはずである。

その結論に向かって、キャラの強い同期たち、教師たちが、
延々と死んで行く、残酷なる現実の悲劇的ヒロイックな作品になるはずである。


原作を正しく理解し、二時間の映画に凝縮するとするならば、
それが唯一の、論理的正解のはずだ。

実写版の糞脚本家と糞プロデューサーは、それを理解していないと考える。
その時点で、真ん中を外している。


エレンの動機が、母親を失う→恋人を失うの変更や、
リヴァイが出ないことの改変や、
その代わりの新キャラを出してリンゴをかじらせる事や、
爆薬で壁を塞ぐ作戦に変更する事や、
同期ものにせず、単独主人公ものにする事や、
「駆逐してやる」台詞の解釈が全然違う事や、
恋敵が巨人化して巨人バトルをする改変などは、
ほんとうに枝葉のどうでもいいことである。

そもそもの幹が間違っているのだから。

真ん中、テーマを外している事が、
「進撃の巨人」という「物語」の実写化として間違っている。

逆に言えば、
「金曜の夜、学校が突然謎の嵐に覆われ、
キャラの立ったクラスの者たちや先生が次々に狂ったり、
謎の思惑があったり、理不尽に死んだり、勇敢に死んで行く中、
主人公と幼なじみだけが、偶然か知恵かで、脱出に成功する」
という「台風クラブ」的な物語のほうが、
「進撃の巨人」という「ストーリー」に近い映画が作れると思うよ。



渡辺雄介と町山智浩よ。
これを見ていたら俺の前に姿を現すのはやめておけ。
言論的にボコボコにしてやる。




どうしてこんなことが起こるのだろうか。

糞ガッチャマンと同じだ。
「目の前のディテールを保ち、物語をアレンジ(改変)する」
という姑息なことをしようとするからだ。

つまり、ビジュアルさえ表現出来れば、
物語は「関係ない」とでも言っているのだ。

脚本軽視もいいところだ。


脚本とは何か。

ビジュアルではない。
設定ではない。
キャラクターではない。
人物関係でもない。
起承転結でもない。

「事件と解決の外的ストーリーと、
主人公の内的ストーリーの解決が、
クライマックスで合致した結果、
カタルシスが起こり、
テーマが暗示される」
ものである。
(これが今の所の僕の定義のようなものだ。
そのテンプレは大岡式に詳しいので、過去記事探って下さい)

その根幹のために、
設定を決め、キャラを決め、人間関係を決め、
起承転結を決め、ビジュアルを決める。
幹と枝葉の関係である。

今、幹と枝葉が逆順でつくられているのである。
目の前に現れているものからしか判断出来ないバカが、
脚本の手綱を握っている。
これでは邦画は滅びていく一方だ。



そうではない、脚本重視の物語の一派を立ち上げたい。
どなたか、志ある者たちはいないか。
なんだかバカバカしくなってきた。
posted by おおおかとしひこ at 22:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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