ということで、ようやく原作漫画「進撃の巨人」が漫画喫茶で一気読みできたので、
糞実写版との比較論を試みてみる。
なお、僕はアニメ版を見ていないので、そこのところは勘弁してもらいたい。
さて、
結論から言えば、
実写版脚本の渡辺雄介と町山智浩は糞だ。
それだけは確信する。
以下原作ネタバレです。
原作の構造をどう一言で捉えるかで、
「この物語はどういうことか」が把握できると思う。
僕は、
原作版は、「同期もの」という構造だと思う。
同期とか、クラスものに近いと考える。
そういう意味では、学園ものに近い。
「漂流教室」とか「スターシップトゥルーパーズ」のような、
あるクラスが危機を乗り越える大枠で、
主人公やその他の秘密が明かされたり、
関係が進展してゆく、というスタイルの物語だと。
科学者の秘密を埋め込まれて何故か巨人化できる主人公エレンと、
ツンデレの飼い猫のようなミカサの関係を固定軸に、
必ず食ってかかる顔の悪い奴や、
弱気だが作戦立案がうまい奴や、
理不尽に死んで行った奴や、
ちょっとずれてる田舎の大食い女や、
ちょっとずれてるメガネの研究者スタイルの教師や、
人類の命運を背負った秘密を知るお嬢様や、
何故か巨人化する奴が三人もいたりする。
最近読んだ漫画「ぼくらの」も同じ構造だと言っても良い。
何故この同期だけこんなに巨人が集中するのかは謎だ。
それを物語上の御都合主義だとしよう。
なんらかのあとづけ説明は入るかも知れないが、
とにかくこの「クラス」は、
奇跡のクラスなのだ。
いわば、学園ものと構造は同じだ。
同じクラスに変な奴やすごい奴がいて、
そのクラスが戦場に出ただけの構造なのである。
そのクラスの連帯感が、テスト勉強や学園祭ではなく、
新兵訓練や夜にベッドで素性を話すことや座学で、
起きているだけの話だ。
さて、実写進撃の巨人は、この構造を理解していない。
それが糞だ。
二時間でできない?
「スターシップトゥルーパーズ」や「フルメタルジャケット」、
「愛と青春の旅立ち」「トップガン」など、同工異曲のものは沢山ある。
それがベトナム戦争や対ソ連でなく、
壁と巨人の世界に置き換えただけのはずだ。
では、原作版のテーマはなんだろう。
まだ完結していない作品だから、
創作するか、どこかで書いてあったものを流用するしかない。
僕は「世界は残酷だ」というところが印象に残った。
「残酷だとしても生き続けるしかない、外の世界を見るまでは」
という、抑圧された人間としての、解放を待つ気持ちだと思った。
だとするならば、
「この異常なる世界の構造を解き明かすこと」
(「マトリックス」「ダークシティ」や原作「風の谷のナウシカ」のように)、
または
「この異常から脱出しておさらばし、自由の世界へいくこと」
(「ダンスウィズウルブス」「ブレードランナー」「THX1138」
「トレインスポッティング」「スラムドッグミリオネア」「アヴァロン」のように)
のどちらかが結論になるはずだ。
そして、制作費がものすごくない以上、
後者が結論にならざるを得ない筈である。
とすると、前段は、
抑圧された、残酷な世界を徹底描写しなければならないはずだ。
巨人におびえ、縮こまり、恐怖で時に殺し合い、
希望を持った同期すら闘う前に死んでしまう、
そんな残酷さを描くべきだ。
(オリジナルも加えてね)
そこからの脱出作戦がクライマックスに来るべきであり、
決して巨人化プロレスがクライマックスには来ない。
おそらくボス的な巨人(ビジュアル的には超大型巨人か)
との決戦がクライマックスになり、
全員死亡の中、エレンとミカサだけが脱出に成功し、
外の世界というより恐怖の世界で自由を勝ち得、
新世界のアダムとイヴになる(かも)、というエンドでよいはずである。
その結論に向かって、キャラの強い同期たち、教師たちが、
延々と死んで行く、残酷なる現実の悲劇的ヒロイックな作品になるはずである。
原作を正しく理解し、二時間の映画に凝縮するとするならば、
それが唯一の、論理的正解のはずだ。
実写版の糞脚本家と糞プロデューサーは、それを理解していないと考える。
その時点で、真ん中を外している。
エレンの動機が、母親を失う→恋人を失うの変更や、
リヴァイが出ないことの改変や、
その代わりの新キャラを出してリンゴをかじらせる事や、
爆薬で壁を塞ぐ作戦に変更する事や、
同期ものにせず、単独主人公ものにする事や、
「駆逐してやる」台詞の解釈が全然違う事や、
恋敵が巨人化して巨人バトルをする改変などは、
ほんとうに枝葉のどうでもいいことである。
そもそもの幹が間違っているのだから。
真ん中、テーマを外している事が、
「進撃の巨人」という「物語」の実写化として間違っている。
逆に言えば、
「金曜の夜、学校が突然謎の嵐に覆われ、
キャラの立ったクラスの者たちや先生が次々に狂ったり、
謎の思惑があったり、理不尽に死んだり、勇敢に死んで行く中、
主人公と幼なじみだけが、偶然か知恵かで、脱出に成功する」
という「台風クラブ」的な物語のほうが、
「進撃の巨人」という「ストーリー」に近い映画が作れると思うよ。
渡辺雄介と町山智浩よ。
これを見ていたら俺の前に姿を現すのはやめておけ。
言論的にボコボコにしてやる。
どうしてこんなことが起こるのだろうか。
糞ガッチャマンと同じだ。
「目の前のディテールを保ち、物語をアレンジ(改変)する」
という姑息なことをしようとするからだ。
つまり、ビジュアルさえ表現出来れば、
物語は「関係ない」とでも言っているのだ。
脚本軽視もいいところだ。
脚本とは何か。
ビジュアルではない。
設定ではない。
キャラクターではない。
人物関係でもない。
起承転結でもない。
「事件と解決の外的ストーリーと、
主人公の内的ストーリーの解決が、
クライマックスで合致した結果、
カタルシスが起こり、
テーマが暗示される」
ものである。
(これが今の所の僕の定義のようなものだ。
そのテンプレは大岡式に詳しいので、過去記事探って下さい)
その根幹のために、
設定を決め、キャラを決め、人間関係を決め、
起承転結を決め、ビジュアルを決める。
幹と枝葉の関係である。
今、幹と枝葉が逆順でつくられているのである。
目の前に現れているものからしか判断出来ないバカが、
脚本の手綱を握っている。
これでは邦画は滅びていく一方だ。
そうではない、脚本重視の物語の一派を立ち上げたい。
どなたか、志ある者たちはいないか。
なんだかバカバカしくなってきた。
2015年10月28日
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