空手の世界でも同じ議論がある。
先生は基本の型を徹底的にやれという。
しかし組手では型の動きは全然出てこないではないか。
型って使えるの?
組手(スパーリング)をガンガンやってればいいじゃん、
型稽古の意味はあるの?と。
これに関する一般的な結論はこうだ。
型は、様々な局面の典型例を抽出したものである。
従って、ズバリそのものの状況があるとは限らず、
似た状況があるだけだ。
だから、型を、ちょっと違う現実に当てはめる能力がない奴は、
ロボットみたいな動きしか出来ず、
それはそもそも型を使いこなしていないのだ。
また、現実の実戦は、限定された一対一のスパーリングより、
様々な局面があるので、
スパーリング限定だけで使える型は、
空手の型の中の一部でしかない。
従って、型は意味がない(使いこなせないやつには)。
型は意味がある(使いこなせるやつには)。
実戦と型の関係はこのようなものだ。
僕は物語には典型的な型がいくつかあると思う。
ベタというやつだ。
ピンチになったらヒーローが現れたり、
ある日転校生がやってきてとんでもない事件が起こったり、
使者(ヘラルド)がとんでもない事件を持ってくることで話が始まったり、
クラスの面々が事件に関わっていったり、
眼鏡を取ったら実は美人だったり、
何故か立ち話を壁の後ろで聞いてしまったり、
最悪のタイミングで出会ってしまったり、
何故かギリギリで会えなかったり、
爆発にギリギリで巻き込まれなかったり、
などなど、
よくあるパターンを抽出すれば、
それは物語の型だと言える。
それらがすべての物語のすべての状況をカバーしているかどうかについては、
なんとも言えないところだ。
空手の型は、すべての実戦の状態をカバーしきれているか?
と問いは同じである。
(空手は中国拳法の白鶴拳が琉球に流伝し、琉球で練られた武術だ。
刃物を禁じられた土地で発達したため、
棒やサイなどの打撃武器は発達したが、刀を扱う型はない。
つまり、槍や日本刀を使える体の動きは空手の型のなかにはない。
元々の白鶴拳にも槍系の体の動きはないから、
余計に空手に槍の動きがないと批判してもしょうがない。
これをして実戦の状態を全てカバーしていないと、
空手を批判することはあまりにも安直だ)
つまり、型には意味がない。
あなたは、ナンパ塾で型を習っただけで、即伝説のナンパ師になれるか?
という問いと似たようなものだ。
型の動きも使えるし、応用も効くし、
そうじゃないときもたくさんあるし、
その時は機に応じて(アドリブで)動けばいいだけの話である。
初心者は、実戦が訳分からなすぎて怖い。
だから型を覚えて安心しようとする。
型を教えて儲ける道場は、
そうやって商売するにすぎない。
儲けの為に型を売り、使いこなせる才能のあるやつがいたら、
夜の部に呼んで実戦をさせるのである。
実戦を何度もやれば、
そこに出てきた型の意味がよくわかり、
型の稽古の意味、何重にも込められた型の分解が、
自力で出来るようになってゆく。
型だけやっても強くなれない。
実戦だけやって型を研究しないのも強くなれない。
ブレイクシュナイダーは10の型を示した。
僕は型を示すほどまだ抽象化しきれていない。
他人の型はいくつかあるなあ、とか、
自分の得意パターンがいくつかあるなあ、と思う程度だ。
ということで、
短い物語(5分)を100つくれ、というのが、
実戦を積むのに丁度いいと僕は思う。
同時に、名作を1万本は見て、
自力で型を覚えることである。
型だけやっても強くなれない。
実戦だけじゃ経験の抽象化が出来ない。
ふたつのループでしか、強くなれないのは、
空手でも物語でも、同じである。
で、物語には空手のような型が明確にはないのが問題だ。
歌舞伎役者は、古典を徹底的に稽古する。
そのなかに代表的な型があるからである。
さて、そもそも稽古という概念が、
過去にあるものを勉強する、という意味だ。
物語に型はある。過去の物語にだ。
我々が未来に作る新しい物語には、過去の型があってはならない。
それが空手と違うところである。
2015年10月29日
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