2015年10月29日

型は使えるのか?

空手の世界でも同じ議論がある。

先生は基本の型を徹底的にやれという。
しかし組手では型の動きは全然出てこないではないか。
型って使えるの?
組手(スパーリング)をガンガンやってればいいじゃん、
型稽古の意味はあるの?と。


これに関する一般的な結論はこうだ。

型は、様々な局面の典型例を抽出したものである。
従って、ズバリそのものの状況があるとは限らず、
似た状況があるだけだ。
だから、型を、ちょっと違う現実に当てはめる能力がない奴は、
ロボットみたいな動きしか出来ず、
それはそもそも型を使いこなしていないのだ。

また、現実の実戦は、限定された一対一のスパーリングより、
様々な局面があるので、
スパーリング限定だけで使える型は、
空手の型の中の一部でしかない。

従って、型は意味がない(使いこなせないやつには)。
型は意味がある(使いこなせるやつには)。


実戦と型の関係はこのようなものだ。


僕は物語には典型的な型がいくつかあると思う。
ベタというやつだ。

ピンチになったらヒーローが現れたり、
ある日転校生がやってきてとんでもない事件が起こったり、
使者(ヘラルド)がとんでもない事件を持ってくることで話が始まったり、
クラスの面々が事件に関わっていったり、
眼鏡を取ったら実は美人だったり、
何故か立ち話を壁の後ろで聞いてしまったり、
最悪のタイミングで出会ってしまったり、
何故かギリギリで会えなかったり、
爆発にギリギリで巻き込まれなかったり、
などなど、
よくあるパターンを抽出すれば、
それは物語の型だと言える。


それらがすべての物語のすべての状況をカバーしているかどうかについては、
なんとも言えないところだ。

空手の型は、すべての実戦の状態をカバーしきれているか?
と問いは同じである。
(空手は中国拳法の白鶴拳が琉球に流伝し、琉球で練られた武術だ。
刃物を禁じられた土地で発達したため、
棒やサイなどの打撃武器は発達したが、刀を扱う型はない。
つまり、槍や日本刀を使える体の動きは空手の型のなかにはない。
元々の白鶴拳にも槍系の体の動きはないから、
余計に空手に槍の動きがないと批判してもしょうがない。
これをして実戦の状態を全てカバーしていないと、
空手を批判することはあまりにも安直だ)


つまり、型には意味がない。
あなたは、ナンパ塾で型を習っただけで、即伝説のナンパ師になれるか?
という問いと似たようなものだ。

型の動きも使えるし、応用も効くし、
そうじゃないときもたくさんあるし、
その時は機に応じて(アドリブで)動けばいいだけの話である。

初心者は、実戦が訳分からなすぎて怖い。
だから型を覚えて安心しようとする。
型を教えて儲ける道場は、
そうやって商売するにすぎない。
儲けの為に型を売り、使いこなせる才能のあるやつがいたら、
夜の部に呼んで実戦をさせるのである。
実戦を何度もやれば、
そこに出てきた型の意味がよくわかり、
型の稽古の意味、何重にも込められた型の分解が、
自力で出来るようになってゆく。

型だけやっても強くなれない。
実戦だけやって型を研究しないのも強くなれない。

ブレイクシュナイダーは10の型を示した。
僕は型を示すほどまだ抽象化しきれていない。
他人の型はいくつかあるなあ、とか、
自分の得意パターンがいくつかあるなあ、と思う程度だ。



ということで、
短い物語(5分)を100つくれ、というのが、
実戦を積むのに丁度いいと僕は思う。
同時に、名作を1万本は見て、
自力で型を覚えることである。

型だけやっても強くなれない。
実戦だけじゃ経験の抽象化が出来ない。
ふたつのループでしか、強くなれないのは、
空手でも物語でも、同じである。



で、物語には空手のような型が明確にはないのが問題だ。
歌舞伎役者は、古典を徹底的に稽古する。
そのなかに代表的な型があるからである。
さて、そもそも稽古という概念が、
過去にあるものを勉強する、という意味だ。
物語に型はある。過去の物語にだ。
我々が未来に作る新しい物語には、過去の型があってはならない。
それが空手と違うところである。
posted by おおおかとしひこ at 11:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック