イコンの話を深めます。
宣伝ビジュアルや、DVDのパッケージ(表紙)は、
本編のイコンであるべきだ。
(時にタイトルカットも。
映画「いけちゃんとぼく」では絵本の表紙を映画的に解釈して撮ったが、
角川の無能宣伝部はそれをイコンにしなかった)
イコンというのは、
要するに一言で、
この映画の内容をなんなのか説明できることである。
それは、機能的にはログラインと同じなのである。
ログラインとは、
一行(から数行)で、
その映画の内容を説明できる文のことである。
キャッチコピーはまだ見ていない人への惹句だが、
ログラインは基本的には既に内容を理解している人用の文だ。
何故なら、
製作者たちがこの映画をどう関係各所に売るかを戦略的に考えるための、
内部文書だからだ。
つまり、ログラインは、飾りなく、
そのストーリーの内容を、端的に短く表さなければならない。
ところで、
大岡式のログラインのテンプレを推奨した。
「Aな主人公がBに出会い、Cする話」である。
このテンプレには、
主人公の内的問題Aと、ヘラルドまたはコンフリクトの相手Bと、
二幕の冒険またはクライマックスの動詞Cが含まれ、
ほぼストーリーの全体的骨格を暗示できる。
つまりは、
これを絵にかけばほぼイコンになるのである。
主人公と主たるコンフリクトの相手Bを描き、
内的問題Aを暗示する要素を主人公周りに描き、
主人公のポーズで全体動詞Cを暗示すればよいのである。
僕はよく、主人公たちがこっちを見てただ突っ立ってるだけの、
宣伝ビジュアルを酷評する。
そこに動詞がないからである。
動詞がないということは、
積極的行動や主体的解決や、
その結果のカタルシスもないことになる。
宣伝ビジュアル通りだとしてだ。
宣伝ビジュアル通りでない、きちんと動詞のある物語だとしたら、
その動詞を読解していない、無能宣伝部だということになる。
いずれにせよ、それは批判の対象だろう。
さて、ここで角川映画の無能宣伝部の話を書いておこう。
これは実際の映画作りでよくあることであり、
バカが実在することの証明だ。
映画「いけちゃんとぼく」は、
ログライン的には、
「想像の世界に逃げがちで、いけちゃんとしか付き合えないヨシオが、
いじめという現実に立ち向かう話」である。
いじめというのは、いじめっ子を倒しても終わらない。
つまり、イコン化しにくいビジュアルだ。
だからタイトルカットは、
ヨシオといけちゃんのツーショットで、
なおかつ前に向かって「走る」というものにした。
背景はサイバラの原風景、
町でも田畑でもない、「どこでもない開いた空間」の、
草原と空である。
人間関係のギスギスした管理社会、学校でもなく、
大人たちの支配圏の町でもなく、
自由に遊んでいい子供の場所、草原で、
ヨシオが、その草原から脱して大人になる話だ。
それを象徴するために、
いけちゃんはヨシオから微妙に遅れている。
(まあそこまで読み取らせるつもりはなかったが)
これは原作絵本の表紙ビジュアルと連動的にさせる意味合いもある。
関係各所に気を使い、なおかつ内容の暗示、
ログラインを暗示させる優れたイコンのはずである。
ところが、角川の無能宣伝部は、
なんとメインビジュアルに、
老人二人が海で佇むバックショットを持ってきやがった。
DVDパッケージではそれを反省したのか、
堤防の上でアイスを食う、オープニングの中のワンショットを持ってきた。
プレスに配信されたファーストカットは、
門柱から外を覗く二人のツーショットと、
海で溺れて助かったあとの二人のツーショットだ。
動詞があるのは、
アイスを食うか、覗くの2パターンしかない。
だから無能なのだ。
動詞がなく、ログラインとしてビジュアルが機能していないからである。
監督にビジュアルを決める権限はなかった。
僕が死ぬほど抗議しても、
予告のネタバレやワンビジュアルの変更は出来なかった。
もう決まったあとだから、と言われた。
監督不在で宣伝を決めることに抗議したのだが。
舞台挨拶をボイコットすれば良かったかなあ。
いずれにせよ、内容の本質をきちんと表現できていない、
イコンやログラインは、
観客を(意図的に、または無能ゆえの結果的に)騙している。
さて、
個人的な恨みはどうでもいい。
あなたは、自分の作品のイコンはなんだと思うか。
絵を描いてみよう。
下手な絵でいいから、「意味」を確定させよう。
それがログラインになることを、確認しよう。
ログラインが面白くないのなら、
その作品がそもそも面白くないし、
ワンビジュアルも魅力がないはずだ。
ワンビジュアルが面白いからといって、
それは作品の本質を表していたりログラインになっているとは限らない。
進撃の巨人が、その例である。
2015年10月29日
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