2015年10月30日

設定とストーリーの違い

設定は書けるのにストーリーが書けない。
初心者にはよくある話だ。
その根本原因は、
ストーリーを書く実力にたいして、
オーバースペックの設定を作ってしまうことである。
(設定倒れ。設定を生かせない)

設定とストーリーはどう違うのか。
設定は静(変化しないもの)、
ストーリーは動(変化するもの)ととらえるとよい。


例えば数学を考えよう。

数学は、公理と定義と定理の集合である。
今なお数学の領域は広がりつつあるが、
たとえば高校数学に限定すれば、
それは静的である。
変化しない。
これはいわば設定である。
設定の体系のようなものだ。

一方ストーリーとは、
「この数学を理解する過程」に例えられる。

数学は理解すればたいへん面白い。
しかし、理解する過程でつまづけば、
糞である。

おそらく高校三年間の数学を理解する過程、
すなわち授業や塾や予備校においての、
数学を理解するストーリーは、
殆どの人にとって糞作品だったに違いない。

どんな面白い設定も、
理解する過程が辛いなら、
それは糞ストーリーである。


あなたの設定はきっととても面白いのだろう。
しかし、それを理解する過程が詰まらなければ、
決して最終章まで面白おかしく、ハマってしょうがないほどには、
たどり着いてくれないのだ。
数学と同様に。



理解する過程、すなわち解説が上手な人は、
語りがうまい。
それはストーリーの語り手としてうまいということである。

ストーリーは動的である。
観客の理解は、次々に変化していく。
むしろ、その理解が変化することが面白さだ。
(こうだと思っていたら、次にこうなるとは!
は、ターニングポイントの面白さである。
その極端なものがどんでん返しだ)

設定は静的だ。
変化しない、完成された体系の面白さだ。
たとえばガンダム世界の設定の面白さである。

ストーリーの面白さは、
その設定を理解する過程の面白さであり、
その設定を使って、どういう新しい物語を紡いでいくかという面白さだ。

数学に例えれば、
設定の面白さとは、数学の体系の面白さであり、
ストーリーの面白さとは、それを理解する勉強過程の面白さであり、
さらには、それを現実に応用する面白さ、
例えば物理学や工学や経済学の面白さなのである。

ということは、
理解する過程が苦痛でなく、なるべく簡単になるように、
なおかつその後の応用の面白さがあるためには、
設定はなるべくシンプルにしておくべきだ、
ということが逆算できる。

ガンダムの設定の面白さは他に類を見ないが、
実は第一話の冒頭、
「人類はスペースコロニーに移住し、
スペースコロニーの一部が独立宣言をして、
地球連邦に独立戦争の宣戦布告をしたこと」
さえ説明されれば、
あとは絵を見れば分かるようになっている。
(モビルスーツのこと、ニュータイプのこと)

数学の体系は膨大でも、
理解する過程を面白くさせているのである。



一般に、SFは設定が多いため、
最初に説明が多くなる。
裏を返せば、
殆どの作品は、「日常世界」という設定を借りているため、
殆ど説明をしなくていいだけの話である。

そこの世界特有のルールなどがあり、
ストーリーに直接関係するならば、
なるべく初出で設定しておくべき、
というのが僕の経験である。



さて、
あなたは静的な設定の体系ばかり作っていても、
物語を書いたことにはならない。

事件と解決の過程において、
人々を描いて感情移入させることによって、
設定を理解する過程において、
それが最終的にどんな意味があったのか感じさせる余韻を残して、
物語を動的に理解させる、
頭から最後までの一連の文章を書かなくてはならないのだ。
posted by おおおかとしひこ at 08:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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