アイデアを沢山出すのはよいことだ。
どんな種類や大きさでも構わない。
我々は、アイデアという金の卵を産み続ける鶏である。
アイデアには大きさがある。
大きなアイデア、小さなアイデアという言い方をする。
その大きさは何で決まるのか。
「影響力の大きさ」で測るといいのではないか、
というのが今回の主旨である。
そのアイデアが、
作品世界において多大なる影響を及ぼせば、
それはたとえ小さな変更でも、
(シーンを入れ替えたり、一行の台詞を変えたり、
名前を変えたりなどでも)
大きなアイデアである。
そのアイデアに基づいて、
どんなに苦労して改造しても、
たいして作品の中身に影響を及ぼさないのなら、
それはゼロアイデアだ。
(否、むしろ疲弊して士気が下がる害悪である)
複数の人々の議論で制作進行すると、
たまにこういうことがあって萎える。
アイデアは、思いついた瞬間は、
ノーベル賞クラスだと思い込みがちだからだ。
それが作品内にどう影響するか、結果を想像できない者はプロではない。
(逆にプロとは、それは大したことないアイデアである、
と冷静に判断出来る者を言う)
それは、作品をガラリと変えるアイデアか。
大きな流れに影響のないアイデアか。
アイデアを書き出す文章量の大小ではない。
説明が複雑で、大きな事を扱うのが大きなアイデアではなく、
微小の範囲でシンプルなものが小さなアイデアではない。
作品をガラリと変える度合いがアイデアの大小である。
たとえばガンダム。
人としての革新、相互理解力の促進などという、
抽象的なニュータイプの概念に対して、
「ティロリロリン」という音とともに額の辺りに光が走るアイデアは、
ビッグアイデアである。
いわゆるヒラメキの表現に近いこれは、
何かを悟るという意味になり、
ニュータイプとは悟り力が強い人(半超能力者)だ、
ということが直感的に理解できるからだ。
わずか一秒ほどの表現アイデアで、
脚本に記載されるト書きにはなかったかも知れない、
規模としては極小のアイデアだが、
ガンダムのテーマ、ニュータイプの、
具体的で唯一の表現になった、最大のアイデアであるかも知れない。
(モビルスーツよりも大きなアイデアだ)
何故なら、逆襲のシャアで、シャアが演説する内容よりも、
如実に頭に入って来るからである。
実際、このティロリロリンの表現のないガンダムを想像してみよう。
たとえば怪我人リュウホセイが特攻をかけてハモンと相討ちにしたとき、
ティロリロリンがなかったら、
アムロのニュータイプへの目覚めを、うまく表現できないかも知れない。
たとえばリュウの声が聞こえるとか、リュウの幻影が見えるとか、
オカルト表現になっていたとしたら
(ララァとの邂逅時の、実験映像的な表現のような)、
ニュータイプの表現は訳のわからない人という、
嫌悪を催すものになっていただろう。
(カツレツキッカの子供たちの目覚めも、気持ち悪さのほうが先だったかも)
僕がZガンダム以降をまるで評価しないのは、
ニュータイプというテーマに、
前作ガンダムに匹敵するアイデアがないからである。
(強化人間という拮抗するアイデアは評価するが、
人間とニュータイプの間の項を埋めただけで、
ニュータイプのテーマを深く掘れた訳ではない。
空間的に広げたスプレッドのアイデアであり、
続編に期待される、深みへ入る「続きの」アイデアではなかった)
アイデアには大小がある。
ちょっとした変更で作品をガラリと変える、
山椒は小粒でピリリと辛い的なアイデアを、
ついつい人は求めがちだ。
しかし、少しずつ詰めてゆき結果には時間がかかる膨大なアイデアでも、
それが作品をガラリと変えれば、ビッグアイデアなのだ。
ただ、分かりやすいアイデアのほうが、
人は把握しやすいだけだ。
e=mc^2は、
方程式がシンプルだからこそ人々に覚えられ、
ビッグアイデアだとみなされている。
しかしアインシュタインの本当のビッグアイデアは、
ローレンツ変換の運動方程式や、テンソル変換にあると僕は思う。
分かりにくいけれど。
(何故t項に虚数iを配しているのか直感的に理解出来ないでいます。
多分数学的な逆算的要請だと思われるが…)
さて、
作品内への影響の大小で、
アイデアの大小を測るべきか。
ほんとうは、世間を変える影響力で、
アイデアの大小を測るべきだ。
子供がすぐ真似をする、というのは、影響力の大きさを示すものだ。
あるいは、世間一般に浸透している、
Aというものはこういうものだ、
という偏見や先入観を、
全然変えてしまうものは、ビッグアイデアである。
たとえばウォークマンの発明は、
「音楽はホールや部屋で固定されて聞くもの」
という概念を根底から変えた。
(それまで移動しながら聞くものには、カーステレオと、
コンポ肩持ちの二種類が先行してあったけど)
最近のCMが詰まらないのは、
まずそういうことを狙っていないからだ。
狙ったとしても、その商品Aへの偏見や先入観を変えようとしているにすぎない。
それはAのセルフパロディしか生まない。
ほんとうにすべきは、商品AのCMで、
別の概念や先入観Bをガラリと変えることである。
その変えかたがAと関係しているから、Aは褒め称えられるのだ。
ウォークマンではAがウォークマン、Bは音楽との生き方である。
CMが流行語大賞を連発していた時代、
たとえば缶コーヒーのボス、「テルミー、ガツン」は、
内弁慶、一億総評論家時代を斬ってみせた。
じゃあお前やってみろよ、という面白さを上手くコントに出来たゆえに、
「後ろから批評しているだけ」という先入観を根底から覆した。
だから流行になり、歴史に残ったのだ。
最近の広告で、ここまでやろうとする人はいない。
一人いても10人がかりで邪魔をする。
だからCMは詰まらない。
さて。
あなたは、毎日毎日アイデアという金の卵を生むだろう。
生むのに苦労すればそれは大きな卵に見えるかも知れないし、
一瞬で出れば小さな卵に、
生んだ人間としては思うかも知れない。
しかし産み手の苦労なぞどうでもいい。
作品内に影響を与えるのか、
世間に影響を与えるのかで、
アイデアの大小を判断する冷静さと分析力をつけることだ。
そういうプロが減ってきて今はうんざりだ。
次世代はちゃんとやれ。
2015年10月31日
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