と、極論してみよう。
ストーリーの根幹は何か。
事件とその解決である。
ここで、登場人物のキャラの面白さとか、
感情移入とか、感動とか爆笑とかの感情部分を、
全部脇に削ぎ落として置いておく。
事件とその解決だけを、
中落ちを削ぎ落としたマグロの骨のように眺めてみよう。
それは、論理的でなければならない。
こういう事件がこういう理由で起きた。
従って、最もよい解決は、
このような最終型で、
その為にはこれこれの手順を踏めばよい筈だ。
しかし現実には色々な事情が入り組んでいて、
そう理想通りにいかない、
そこで工夫を凝らし、
時に危ない橋を渡りながら、
合理的な解決法を選択し、
解決に至る。
大体このようなロジックがあるはずだ。
このロジックに反するのを、
ご都合主義(論理的に展開せず、無理矢理がある)や、
デウスエクスマキナ(作中に設定されていない超自然的な解決)、
夢落ち(なかったことにする)などとよぶ。
とくにロジックで組み立てるべき、
ミステリーを考えよう。
たとえばアリバイ崩しや犯人の動機は、
論理的でなければならない。
論理的飛躍があったり、曖昧だったり、無理があったり、
不自然だったり、論理的に矛盾があったり、
理由なき唐突は、
ミステリーとしては落第だ。(あえて狙うのは別)
いわば数学の証明をしなければならないような文脈で、
おかしな証明をするようなものである。
全ての論理はきちんと繋がり、
三段論法や背理法や対偶や帰納法や演繹法や対角線論法などで、
ひとつの行と次の行が繋がり、
前提から結論が導かれなければならない。
ミステリーとは、そのロジック(パズル)を楽しむジャンルだ。
僕は詳しくないので代表例を挙げられないが、
たとえばスリラーの傑作「ソウ」(2以降は駄作)の、
パズルのようなロジックは最高である。
さて、
ミステリーに勿論限らない。
全てのストーリーは、
論理的に展開し、矛盾や飛躍があってはならない。
全ての展開や予測は、ロジックによってもたらされる。
何も難しいことではない。
うんこが漏れそう(事件)
→トイレを探す(論理的行動、その場でするのは社会的死)
→駅のトイレが埋まってた
→待つ
→他のトイレはあるか
→女子トイレ→いやそれはやめておこう
→パチンコ屋→しかし最近のパチンコ屋は監視カメラが
→デパートのトイレへ
→清掃中→次の男子トイレは5階
→階段を登るか、しかし腹に刺激が
→引き返し、清掃中のおばちゃんに「漏れそう!」と言って入れてもらう
→無事、トイレで脱糞(解決)
の、問題から解決までは、
全て論理的に展開している。
矛盾も飛躍もない。
全てのストーリーは、論理的でなければならない。
矛盾や飛躍があってはならない。
全て順接であるべきである。
勿論、人間は感情の生き物であるから、
その論理を越える行動があるし、
それがストーリーの面白さだ。
しかしそれは、「普通そうする」という強固な論理がなければ、
それとの差異を楽しめないのだ。
ロジックとは、抽象的なものである。
つまり、誰がやっても、同じ形であるものだ。
だから主人公がどんな人間であれ、
論理的判断や行動は同じはずなのだ。
上の「うんこ漏れそうストーリー」という極端な例でも、
この論理的構造に、主人公の個性を足すことは可能だ。
あるいは、別の感情を足すことも出来る。
途中で初恋の人と再会するという場面を作ることも出来る。
結構なオッサンが主人公で、
掃除のおばちゃんが初恋の人、という再会を組むことも可能だ。
こうやって、論理的構造に、感情を足していくのである。
ベースになるのは論理的構造だ。
これがグズグズなら、たとえ初恋の人に再会しても、
うんこの話が上手くいかずに終わってしまう。
うんこのメインストーリーラインが、
論理的に破綻していないからこそ、
そこに感情を盛ってゆくことが可能なのだ。
さて。
そのロジックは、
大きく言ってシンプルにするべきであり、
細かくは先の予測できない複雑なものにするべきである。
大きくはシンプルな構造だと、
分かりやすい。想像が膨らみやすい。予想しやすい。
だから、細かくそれを裏切って、複雑にしてゆける。
その複雑さを楽しみ、いい意味で裏切られて、
結局シンプルな結論に達すると、
人はそのロジックを美しいと思う。
背骨が真っ直ぐであるような気分になるからだ。
感情は、その構造に足してゆくのである。
まずあなたは、
ストーリーのロジックを矛盾なく組み立てること。
2015年11月05日
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