矛盾なく面白い、問題から解決までのロジックが既にあるとする。
これは、たとえばプロット形式で書くことが出来る。
プロットには様々なものを含めて書くものだが、
ソリッドに、ストーリーのロジックだけを書き出す方法もある。
ためしに、名作の、感情抜きのロジックだけを書いてみるとよい。
ルパン三世カリオストロの城の場合…
かつて若い頃に苦い失敗をした、
贋札の件にルパンは再会する。
行き掛かり上助けた逃げてきた女から、
謎の指輪をゲット。
これは、ゴートの紋章の刻まれた王族のものだ。
贋札の原版を盗むため、
ルパンは一味を集合させ、
警戒のキツイカリオストロ城に潜入、
囚われの身の女と再会する。
しかし伯爵に見つかり、地下に叩き落とされる。
地下迷宮には贋札の輪転機があり、
これを白日の下に晒すことにする。
伯爵への復讐であり、ついでに贋札の原版を盗む計画だ。
伯爵の結婚式に乗じ、
マスコミのカメラが集まる前でボヤ騒ぎを起こし、
贋札の輪転機をカメラに写して世界中に中継。
あとは囚われの女を救出するのみ。
伯爵の言う指輪に隠された遺産とは、
湖に沈んだ遺跡だった。
これじゃ盗めねえやとルパンは退散。
いつもの銭形とのおっかけっこに戻ってゆく。
さて。
ここにクラリスとの淡い恋愛のストーリーラインが含まれて「いない」ことに、
お気づきのことだろう。
上にあげたロジックは、あくまでメインストーリーラインでしかない。
(クラリスとの恋がメインストーリーラインと言ってもよいが、
一応泥棒稼業のほうを、メインストーリーラインとしよう)
あくまでこれは大きくは、論理的動機だ。
お宝を頂く、という動機のもとの行動である。
これにルパンの個人的恨み
(若い頃にゴート札に挑んで失敗し、
今回も伯爵にはめられたので、
マスコミの前に贋札を晒して復讐する)
という、「個人的感情」が乗っているので、
既にこのストーリーラインで面白いのである。
カリオストロの城が傑作なのは、
このロジックによる外的ストーリーと、
クラリスとの淡い恋という、彼の内的ストーリーが同時進行するところだ。
前にあげた「うんこ漏れそうストーリー」のロジック構造に、
初恋の人と再会するという、
個人的感情が乗ったら急に面白くなったことを思いだそう。
カリオストロの城と並行で考えるのもおこがましいが、
論理的ストーリーラインに、
個人的感情が絡んでくると、
映画は途端に面白くなるのである。
ルパンのいつもの、「お宝を盗むストーリー」自体も、
個人的過去の痛い目を晴らすという個人的感情があり、
囚われのクラリスを救う過程で、
彼女がかつて命を救ってくれたことを思い出し、
恩を返そうとするのだが、
どうやら彼女に惚れられ、
応えてもいいのだがこんないい子を汚い世界に巻き込めないと決意する、
そんな個人的感情の揺れのストーリーが、
同時に重なっているからこそ、
ロジックが感情で揺れて、面白いのである。
浮気はいけないことは、
ロジックでは明らかだ。
しかし感情に人は流されるし、背徳感という感情の面白さもある。
人はロジックだけでなく、感情で判断して行動する。
論理では明らかな結論や決断と、
感情での判断が矛盾するからこそ、
人は悩むのだ。
ここが、人間の面白いところなのだ。
ロジックで考えれば、
ルパンはクラリスを救わなくてもいい。
しかし伯爵の結婚式に薬を打たれて出席している彼女を、
救いにゆき、かつ、
ロジック作戦(カメラの前でボヤ騒ぎ)に利用する、
だからこそこの映画は痛快なのである。
相変わらず、ロッキーでも同じだ。
ロッキーはロジックでは引退勧告である。
しかし感情がそれを許さない。
プライドもある。
しかも俺には全盛期なんてなかった、と泣き叫ぶ。
だからこそ、そのどん底から這い上がろうとするロッキーに、
皆感情が震えるのである。
ロジックでは敗けだ。
しかしそれを覆すことは出来るのではないかと。
その帰着先が、せめて最後まで立つ矜持であり、
愛する女の名を堂々と叫ぶ自己確認だ。
感情のストーリーがロジックを凌駕する。
その勢いこそ、ロッキーの素晴らしいところである。
「てんぐ探偵」という物語のユニークなところは、
ロジックだけだと「負の感情Aでない心に到達すること」
という正解が見えている結末に対して、
論理ではどうしようもない、
「心からそう思うこと」という感情に至るように、
おはなしを組んでいる所だ。
人はロジックで感動はしない。
感心するだけだ。
なるほどと感心したうえで、
感情が震える話が来たとき、
真の感動になるのである。
ただ感情に流されて泣きを求めても薄っぺらい。
ただ論理的解決をスマートにしても深みがない。
それらを複数のストーリーラインとして走らせ、
それがクライマックスの一点で重なりあうからこそ、
映画はカタルシスを生むのである。
ロジックによる論理的構造を、僕は外的ストーリー、
感情による内面のストーリーを、僕は内的ストーリーと、
呼んで区別している。
外的ストーリーが出来てないものは論理が破綻している。
内的ストーリーが出来てないものは感情が最後にストンと落ちない。
外的ストーリーだけだと、パズルや証明の遂行に過ぎず、心が震えない。
内的ストーリーだけだと、その人の都合や愚痴ばかり聞かされる。
外的ストーリーがきちんと出来ていて、
内的ストーリーもきちんと内的問題の解消になっていて、
それらが絡み合い、クライマックスで同時に解決すると、
映画は名作になりえる。
カリオストロでは、
クラリスを救出して伯爵を倒し、遺跡が現れる場面、
ロッキーでは、
観客が総立ちになりエイドリアンの名を叫ぶラスト、
てんぐ探偵では、
宿主の心が平常心に戻り、正気を取り戻し、
心の闇が晴れる瞬間であり、
ドラマ風魔では、
夜叉面を風林火山で一刀両断する場面だ。
物語は、まず論理的構造だ。
そこに感情のストーリーを重ねていく。
(勿論実際には同時進行で作っていく。
縦糸と横糸を編んでいく編物にたとえられることもある。
今回はバラバラに分解してみせた)
2015年11月06日
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