プロってなんだろうな、という話を昼飯食いながらしていた。
それは、
100%自分の実力を出しても、
なお世間に詰まらないと言われた経験を、
早目にした人のことじゃないか、
と僕は話した。
アマチュアのうちは、
機材も才能も技能もしょぼいから、
自分の思う理想郷を実現することは出来ない。
100%に近づけず、
30%ぐらいしか出来なくて、
忸怩たる思いを抱く。
こうするべきか、ああするべきか、という試行錯誤の時間も無限にある。
無限の時間を投入して、
70%、80%、90%に完成度の純度を上げることも出来る。
僕は学生時代8ミリ映画を撮っていたのだが、
純度を上げるには時間さえ積めばなんとかなることを、
膨大な無駄から知った。
だから比較的、当時作ったものは、
「当時の」理想の100%に近いものだ。
ただ、プロの役者やプロの機材じゃないというだけで、
それなりに理想を実現したつもりでいた。
ところが。
どんなに理想の100に近いものを作っても、
その100が、世間の30ぐらいかも知れない、
ということを、
僕は観客のアンケートから知ることになる。
(わざわざ学生映画の上映に300円払ってくださり、
思うところを正直に書いてくれた皆さん、
本当にありがとうございます)
自分の限界値を知る、ということに、
言葉で纏めるとなる。
自分一人の力の限界値を知る。
これは、映画という、複数の人間で作るものづくりにおいて、
ひょっとするとプロになってもなかなか気づけないことなのではないだろうか。
どうして自分の理想通りにならないのか、
と、怒る偉い人を見てきた。
それは分かるけど、あんたの理想通りに出来ても、
下らないものなんじゃね?
と、その人に言ってあげるべきかどうか、
いつも迷う。
その人はいたく傷つくだろうし、
自信を失い、ものづくりをしなくなるかも知れないからだ。
大切にしたい人には、嫌われても言うかも知れない。
唯一昔の恋人が書いた脚本にそう言ったことがあるけど、
彼女はそれから二度と脚本を書かなかった。
彼女の創作意欲や、単純に好きな人に誉めてほしいという芽を、
僕は早々に折ってしまったかも知れない。
でも、折れて終わり程度の芽なら、
ここで折れたほうがいいのかもなあ、
と巨視的には思う。
大抵恨まれるし、プロの世界は狭いから、
舌渦は避けるに越したことはないんだけどね。
自分の理想通りに出来たとしても、
それは世間から見てたいしたものではない、
と自覚するとどうなるか。
相手のいいところを引き出して、
自分の作品に乗せていくのである。
相手を利用する、とも言えるし、
コラボレーションである、とも言える。
僕は、役者とのコラボレーションが上手だ、
とよく言われるし、多分そうだと思う。
自分がイケメンじゃないから、余計そうなのかも知れない。
あと自分の例を言うなら、カメラマンは固定しない。
それは、絵は流行だと思っているから。
固定した絵を好む人もいるけど、
僕は作品によって画材を使い分ける絵描きみたいなもんだ。
音楽も自分で作らない。まかせる。構成や気持ちだけはつくる。
シナリオと編集は自分でやる。
それが僕なりの理想であって、
その100%を実現したうえで、それ以上の芸術的パワーを、
作品に上乗せして、皆さんの50や70に届けているつもりだ。
あなたは、100%の理想を実現し、
自分の完璧な思うものを作って欲しい。
そしてそれが、
世間でたいしたことないものだと言われて、
愕然として欲しい。
それは若いうちにやるのがいい。
その自己認識から出発した人は、
他人と協力したものづくりが得意になると思う。
一人部屋に籠る人は、
映像づくりに向いてないかもね。
小説一人で書いてて、ほんとにきつかった。
小説や漫画は、一人で全部支配権を行使できる代わりに、
全部自分の責任になるよね。
全部が自分の思い通りになってないのに、
出来上がったものは、
全部自分の思い通りになったものより、良い出来だ。
それが、プロの作るレベルだと思う。
2015年11月06日
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