2015年11月08日

「一体どうなるのか」は間違った場面

このあと予想がつかないけど、
とてもワクワクする。
そういう場面はちょいちょいあるものだ。

特に連載ものなら、一週間引っ張る為に、
どうなるか分からないけどとにかくワクワクする、
という場面で終わっておいて、
その間に時間を稼いで考える、
ということはよくある。

しかし、映画においてはこれは間違いである。


映画でこんな場面があるとしたら、
作者は何も考えていないぼんくらである。

全ての場面は、とある方向性を持っていなければならないからだ。
ある場面が来たとき、Aという方向の期待が常にかからなければならない。
それは、前からの文脈という「流れ」があるからである。

「どの方向に行くのか分からないが、
とにかくワクワクする」のは、
方向性を持っていない、つまり観客のリードが外れてしまった場面なのだ。


こういうワクワクな場面は、
たとえば新キャラ登場とか、
新舞台突入とか、
衝撃の正体が分かったときとか、
とにかく流れがガラリと変わったときである。

連載マンガなら一週間そのワクワクや不安で過ごせるが、
映画ならそのワクワクや不安は、5分以上あってはならない。
(経験的に、5分も本編のリードから外れたら、
それは間違いなく糞作品であり、
退屈をはじめているということである)

このへんが漫画と映画の違うところかも知れない。

勿論、本編の文脈を離れて、
観客が自由に夢想する時間はとても大事だ。
しかしその自由な夢想を、
現実の脚本は、大抵越えられない。
だから、下手に自由に想像させると、
現実の脚本の方が詰まらないという結果を招きがちなのだ。


様々な理由から、
「このあと一体どうなるのか?」と不定に思わせるのは得策ではない。
「このあとAになるのだろうか?(それともBだろうか?)」と、
具体的なものに引っ張ることが、
リードがきちんと行われているということである。


(ドラマ風魔では、陽炎の離反がまさにこれに当たる。
毎週見るドラマでは、このあと一体どうなるのか?というヒキは、
楽しくてしょうがない。
壬生の離反に続き、夜叉の崩壊の面白さの部分である。
僕は、もし映画版風魔があるとしたら、
この部分が全然面白くならないと直感した。
ドラマのラストの「残りあと○忍」の仕掛けとかが、
機能しないと感じたのだ。
途切れ途切れ見るものと、一気見するものの違いである。
映画版風魔の話が一瞬出たけど、
追加撮影の予算がなく、編集のみでやれないかという相談だった。
当時の僕は、陽炎や壬生のこういう面白さが全く無くなることを思い、
無理だと思った。

今思えば、舞台版脚本の惨憺たる出来を知らないときの判断だったから、
舞台版があんなものでいいのなら、適当に編集して、
やっとけばよかったかなあとちょっぴり後悔している。
それで稼げれば、二期の資金になったかもだからだ。
キャストトークとか握手券つけて、悪どく資金を稼げば良かったのかもだ。
面白いものを届ける、ということは僕の一番の仕事だから、
それに反して断ったのは、間違いじゃないんだけど。
大体さ、十話と五話と七話と六話と十一話の切るところがないから、
それだけで二時間ごえになってしまうのだよ…。
あと一話と二話と十二十三で二時間だし…。
前後編三時間ごえならいけるかと答えたけど、
借りる映画館の興行上、ナイト一回興行でそれは無理だったし。
何が言いたいかというと、映画版風魔、やっとけばよかったと、
いまだに悪魔の誘惑がある、ということ)
posted by おおおかとしひこ at 14:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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