このあと予想がつかないけど、
とてもワクワクする。
そういう場面はちょいちょいあるものだ。
特に連載ものなら、一週間引っ張る為に、
どうなるか分からないけどとにかくワクワクする、
という場面で終わっておいて、
その間に時間を稼いで考える、
ということはよくある。
しかし、映画においてはこれは間違いである。
映画でこんな場面があるとしたら、
作者は何も考えていないぼんくらである。
全ての場面は、とある方向性を持っていなければならないからだ。
ある場面が来たとき、Aという方向の期待が常にかからなければならない。
それは、前からの文脈という「流れ」があるからである。
「どの方向に行くのか分からないが、
とにかくワクワクする」のは、
方向性を持っていない、つまり観客のリードが外れてしまった場面なのだ。
こういうワクワクな場面は、
たとえば新キャラ登場とか、
新舞台突入とか、
衝撃の正体が分かったときとか、
とにかく流れがガラリと変わったときである。
連載マンガなら一週間そのワクワクや不安で過ごせるが、
映画ならそのワクワクや不安は、5分以上あってはならない。
(経験的に、5分も本編のリードから外れたら、
それは間違いなく糞作品であり、
退屈をはじめているということである)
このへんが漫画と映画の違うところかも知れない。
勿論、本編の文脈を離れて、
観客が自由に夢想する時間はとても大事だ。
しかしその自由な夢想を、
現実の脚本は、大抵越えられない。
だから、下手に自由に想像させると、
現実の脚本の方が詰まらないという結果を招きがちなのだ。
様々な理由から、
「このあと一体どうなるのか?」と不定に思わせるのは得策ではない。
「このあとAになるのだろうか?(それともBだろうか?)」と、
具体的なものに引っ張ることが、
リードがきちんと行われているということである。
(ドラマ風魔では、陽炎の離反がまさにこれに当たる。
毎週見るドラマでは、このあと一体どうなるのか?というヒキは、
楽しくてしょうがない。
壬生の離反に続き、夜叉の崩壊の面白さの部分である。
僕は、もし映画版風魔があるとしたら、
この部分が全然面白くならないと直感した。
ドラマのラストの「残りあと○忍」の仕掛けとかが、
機能しないと感じたのだ。
途切れ途切れ見るものと、一気見するものの違いである。
映画版風魔の話が一瞬出たけど、
追加撮影の予算がなく、編集のみでやれないかという相談だった。
当時の僕は、陽炎や壬生のこういう面白さが全く無くなることを思い、
無理だと思った。
今思えば、舞台版脚本の惨憺たる出来を知らないときの判断だったから、
舞台版があんなものでいいのなら、適当に編集して、
やっとけばよかったかなあとちょっぴり後悔している。
それで稼げれば、二期の資金になったかもだからだ。
キャストトークとか握手券つけて、悪どく資金を稼げば良かったのかもだ。
面白いものを届ける、ということは僕の一番の仕事だから、
それに反して断ったのは、間違いじゃないんだけど。
大体さ、十話と五話と七話と六話と十一話の切るところがないから、
それだけで二時間ごえになってしまうのだよ…。
あと一話と二話と十二十三で二時間だし…。
前後編三時間ごえならいけるかと答えたけど、
借りる映画館の興行上、ナイト一回興行でそれは無理だったし。
何が言いたいかというと、映画版風魔、やっとけばよかったと、
いまだに悪魔の誘惑がある、ということ)
2015年11月08日
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