ロジックということをずっと考えていて、少し分かったこと。
何故正論は嫌われるのか?についての、
僕なりの観察。
殆どの人は、論理的にものを見ていないからである。
人はまず、主観で生きていて、
客観的になることは難しい。
主観を捨てて絶対的な客観になることは、
離人症と呼ばれる精神疾患の一種であり、
客観的になること自体の不可能性が最初からある。
悟りは、殆どの人に出来ない。
「さまざまな立場からものを見ること」という多様的視点を持つ、
準客観性とも言うべきことすら、
人には難しい。
せいぜい自分ともう一人(恋人、仕事相手、友達などの今目の前にいる人)
ぐらいの思いを汲み取るぐらいが精一杯で、
自分と同精度で、複数人の立場に立つことすら、
中々に困難である。
(物語を書くには、最低5、6人を、主役と同程度の精度で、
中身と外身を動かす必要がある。
主人公も含め、作者と同精度である必要はない)
見も知らぬ人がこれを見たらどう思うか想像したり、
こういう見方が世の中にあり得る、とか、
平均的にはこう反応する、などのことを、
予測できる人はなかなかいない。
僕らのようなプロ集団においてもだ。
(特にぼんくらプロは、自分の判断が客観性を欠いていることを、
自覚できない)
だから、
「客観的な立場からものを見ること」自体がレアケースなのである。
自分の判断や好みには偏りがあり、
それは平均値とはこう違うのだ、
という理解を正確に把握するように心がけている人は、
レアなのである。
何故なら、自分が中心にいないことに、
人は強い不快や不安を覚えるからである。
出来ない、不可能、とは言っていない。レアだ、と言っている。
主観でしか判断出来ない人を責めていない。責めるのは諦めた。
(責めても劇的改善がないから)
レアだ、と言っている。
論点のもうひとつ。
人は、論理がそもそも苦手なのである。
数学の証明が大好きな人はあまりいない。
法律の勉強が大好きな人もあまりいない。
(法律は、実質的には抜け穴探しの詭弁と、抜け穴塞ぎのイタチごっこではないかと、
詳しくない僕は思う)
ある論理と別の論理があって、
どちらがより合理的か、どちらが強いか、どちらが分かりやすいかを、
判断することは苦手だ。
二つならまだしも、
同じことをしようとする4つ5つの論理を並べて、
どれがいいか、どれが美しいか、どれが合理的か、
あるいはどう改良すると良くなるかを、
頭のなかに構築でき、判断できる人は、
レアなのである。
(実際、脚本のリライトにおいては、
これが頻繁にある。リライトは、別解探しに似ている)
あるいは、複雑な論理構造を単純化して見せたりするのは、
論理構造を把握し、脱構築できる人しか出来ない。
(そしてそれは物事の本質を捉える、頭のいい人と言われる)
あるいは、ある論理と論理を組み合わせたとき、
矛盾が生じることを発見できたり、
ある論理を別の解釈をして、詭弁とすることなどができる人も、
それは詭弁であると論破できる人も、
レアなのである。
この二つの点において、
正論は嫌われる。
第一に、そもそも正論が成立するように、
現状を客観的に見れていない。
第二に、そもそも正論が正しいかどうか、
成立しているかどうか、
反論し得るかどうか、論理的に把握できない。
論理で分からないことがあると、
人の取る行動は同じである。
それは、多くの人の、算数や数学に対する態度と同じである。
近づかないようにしよう、だ。
一言でいえば、
正論は、ムズカシイ扱いされているのである。
あなたは正論を言い、世界をただした気になっているかも知れない。
しかし、多くの人は、ムズカシイから遠ざけているだけだ。
つまり、ロジックは、表面的には世界を救わない。
しかし、本当に救うもののひとつは、ロジックである。
何故なら、ロジックが破綻した物語は、
物語として成立していないからである。
ということで、
またいつかロジックについて書くときは、
具体例を見つけてからにします。
2015年11月12日
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