2015年11月12日

何故正論は嫌われるのか

ロジックということをずっと考えていて、少し分かったこと。

何故正論は嫌われるのか?についての、
僕なりの観察。

殆どの人は、論理的にものを見ていないからである。


人はまず、主観で生きていて、
客観的になることは難しい。

主観を捨てて絶対的な客観になることは、
離人症と呼ばれる精神疾患の一種であり、
客観的になること自体の不可能性が最初からある。

悟りは、殆どの人に出来ない。


「さまざまな立場からものを見ること」という多様的視点を持つ、
準客観性とも言うべきことすら、
人には難しい。
せいぜい自分ともう一人(恋人、仕事相手、友達などの今目の前にいる人)
ぐらいの思いを汲み取るぐらいが精一杯で、
自分と同精度で、複数人の立場に立つことすら、
中々に困難である。
(物語を書くには、最低5、6人を、主役と同程度の精度で、
中身と外身を動かす必要がある。
主人公も含め、作者と同精度である必要はない)

見も知らぬ人がこれを見たらどう思うか想像したり、
こういう見方が世の中にあり得る、とか、
平均的にはこう反応する、などのことを、
予測できる人はなかなかいない。
僕らのようなプロ集団においてもだ。
(特にぼんくらプロは、自分の判断が客観性を欠いていることを、
自覚できない)


だから、
「客観的な立場からものを見ること」自体がレアケースなのである。
自分の判断や好みには偏りがあり、
それは平均値とはこう違うのだ、
という理解を正確に把握するように心がけている人は、
レアなのである。
何故なら、自分が中心にいないことに、
人は強い不快や不安を覚えるからである。

出来ない、不可能、とは言っていない。レアだ、と言っている。
主観でしか判断出来ない人を責めていない。責めるのは諦めた。
(責めても劇的改善がないから)
レアだ、と言っている。




論点のもうひとつ。

人は、論理がそもそも苦手なのである。
数学の証明が大好きな人はあまりいない。
法律の勉強が大好きな人もあまりいない。
(法律は、実質的には抜け穴探しの詭弁と、抜け穴塞ぎのイタチごっこではないかと、
詳しくない僕は思う)

ある論理と別の論理があって、
どちらがより合理的か、どちらが強いか、どちらが分かりやすいかを、
判断することは苦手だ。
二つならまだしも、
同じことをしようとする4つ5つの論理を並べて、
どれがいいか、どれが美しいか、どれが合理的か、
あるいはどう改良すると良くなるかを、
頭のなかに構築でき、判断できる人は、
レアなのである。
(実際、脚本のリライトにおいては、
これが頻繁にある。リライトは、別解探しに似ている)

あるいは、複雑な論理構造を単純化して見せたりするのは、
論理構造を把握し、脱構築できる人しか出来ない。
(そしてそれは物事の本質を捉える、頭のいい人と言われる)
あるいは、ある論理と論理を組み合わせたとき、
矛盾が生じることを発見できたり、
ある論理を別の解釈をして、詭弁とすることなどができる人も、
それは詭弁であると論破できる人も、
レアなのである。




この二つの点において、
正論は嫌われる。

第一に、そもそも正論が成立するように、
現状を客観的に見れていない。
第二に、そもそも正論が正しいかどうか、
成立しているかどうか、
反論し得るかどうか、論理的に把握できない。

論理で分からないことがあると、
人の取る行動は同じである。
それは、多くの人の、算数や数学に対する態度と同じである。

近づかないようにしよう、だ。


一言でいえば、
正論は、ムズカシイ扱いされているのである。



あなたは正論を言い、世界をただした気になっているかも知れない。
しかし、多くの人は、ムズカシイから遠ざけているだけだ。
つまり、ロジックは、表面的には世界を救わない。
しかし、本当に救うもののひとつは、ロジックである。

何故なら、ロジックが破綻した物語は、
物語として成立していないからである。


ということで、
またいつかロジックについて書くときは、
具体例を見つけてからにします。
posted by おおおかとしひこ at 17:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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