人は何故物語を見るのか。
よく言われる論は、
「生活必需品ではない」という根拠である。
飯や寝床や服ではない。
エアコンや洗濯機やテレビやネットのような、
準必需品でもない。
筆記用具や紙のような、ないと困るものでもない。
酒や煙草と同様、嗜好品であると。
いわば贅沢品扱いである。
本当にそうだろうか?
情報化社会になったと言われて久しい。
情報は生活必需品か?という議論はどこかでなされているのだろうか。
何故人はここまで情報を得たいのだろうか。
原始的な猿の生活を考えたとき、
あそこに獲物がいる、あそこは危険、
などの情報は生活必需品に等しい。
が、現代人はその情報よりも、
他の情報を必死で得て生きている。
その情報とはどのようなものだろう。
それを、僕は物語である、と言いたいのだ。
まず、物語は物質ではない。
豪華な装丁の本から読み捨ての週刊誌まで、
物質的なものはあるが、
物語はその物質ではなく、中身の情報だ。
漫画は情報か?画集という物質か?
手塚治虫は、自分の絵は記号だと断言している。
つまり、絵には到達していないと。
だとすると手塚の漫画は情報であり、物質ではない。
手塚は大友克洋の出現に、自分に描けない、
絵としての価値を漫画に見いだし、新しい漫画家が誕生したと言った。
以来、漫画は絵としての価値をどんどん高めていく。
一方の極を見ておこう。
「エアギア」(大暮維人)という、ストーリーは全く面白くないが、
画集として素晴らしい漫画がある。
これは物質的な素晴らしさであり、
物語として素晴らしくない。
漫画として価値があるかどうかは、
絵とストーリーの両方が価値がないとしんどいと思う。
手塚の絵は、記号としての絵の良さもあった。
エアギアは画集だと言われるように、「漫画としての価値」はゼロだ。
さて、漫画は物質か、情報か?
ストーリーは情報だが、
そもそもストーリーが糞なら、よほど物質的価値がないと、糞だ。
絵は下手でも、ストーリーが面白いなら、神作である。
手塚治虫や近年では尾田富樫など、代表作家は沢山いる。
絵がうまくなくちゃ漫画家にはなれない、と素人は思うけど、
実際、ストーリーがうまくないと漫画家にはなれない、
と実感するのが、描き始めた者のリアルだ。
(僕は漫画家を目指していたのだが、絵よりストーリーが下手な自覚があって、
映画を撮ればストーリーのことが分かるのでは、と思って、
純粋にストーリーだけの脚本に興味を持った。
以来30年以上脚本のことを考えている)
ということで、漫画の本質はストーリーであり、
漫画も物語であり、情報である。
映画も同様だ。絵がショボくても中身が面白ければ、受け入れられる。
映画、ドラマ、小説、漫画、演劇など、
プロフェッショナルによるものだろうが、
アマチュアによるものだろうが、
それらは、情報である。
情報に課金するのは難しい。
情報化社会以前は、その情報が乗っている物質、
本や雑誌、ビデオなどを売ることで対価とした。
刑事が金を払う「情報屋」という物質のない情報に金を払うのは、特殊だった。
映画館だって、物質を渡すわけではないので、
「入場料」というショバ代(権利)を物質的に売った。
情報化社会では、「配信」に課金するシステムに落ち着きそうだ。
ネットの情報はタダ、テレビの情報はタダ、
という常識から、課金料を上げることは難しく、
かといって物質的に豪華でないとそこそこの金を取れないという、
ジレンマに今陥り始めている気がする。
さて、物語は情報だ。
情報は生活必需品である。
情報とはどのようなものだろう。
その情報そのものが、物語形式である、
というのが僕の主張だ。
短い論理や文だろうが、
長いものだろうが、
それを「理解し」「記憶に格納し、構造化する」というやり方が、
物語をそのように扱うことと、同じである、
と僕は思うのだ。
情報の形式や物語形式なるものを定義せずに言っているので、
検証のしようがないのが申し訳ない。
ただ、事実かフィクションかの差しか、
(一般)情報と、物語の差はないのではないか、
ということを言いたいのである。
真偽不明の噂話、デマ、科学で証明できない謎(幽霊、UFO、オーパーツ、歴史の闇)、
○○は△△なのではないかという仮説、
などは、事実でもフィクションでもない、
中間の物語である。
つまり、情報は三種類の物語だ。
事実という物語。
明らかにフィクションという物語。
中間の物語。
第一者は、ジャーナリスト、科学者から、大人たちが扱うこと。
第二者は、我々作家が扱うこと。
第三者は、殆どの人が扱うこと。
第三者は、第一者と思われたり、時に昇格したりする。
第二者だけが、第一者と関係ないと誤解されている。
実はそうではない。
優れたフィクションは、事実よりも、人間の本質のリアリティーをえぐり出す。
ブラックジャックが完全に嘘の世界か?
否だ。人間のほんとうはこうだ、と真実に迫るから面白いのだ。
真実を戯画化している、その具合が面白いのだ。
優れたフィクションは、形式上は嘘だが、
書かれている内容が真実らしいことなのである。
第三者の噂話は、形式上は本当らしく、内容が真実とは限らないものであることと、
対称的である。
さあ、
では、本当か嘘かだけでしかなく、
情報は物語である。
それは、生活必需品だ。
真実の情報だけを選り分けたい。
それが人生に直結するからだ。
とくにフィクションの物語の提供する情報は、
あそこに獲物がいるとか、あそこは危険だ、
という情報でも、
あの人はこんなことをしている、こんな事件があった、
というジャーナリズムでもない。
人間とはこういうものである、
社会とはこういうものである、という本質的な情報や、
人間とはこうあるべきではないか、という未来の情報、
その他雑学的な情報が、
混ざったものではないだろうか。
逆に、人間とはこうあるべきではないか、人間とはこういうものである、
を、フィクション的な物語以外に、
伝達する手段があるだろうか。
我々は、結局我々が何者なのか知りたい。
物語は、それに答える情報である。
そしてその答えはたったひとつではない。
だから今日も、物語は消費され、
どれだけ物語を消費しても、人は飽きないのだ。
つまり、
人間が人間として生きるために、
物語が必要だ。
生活必需品の中に情報を入れるならば、
物語は生活必需品である。
東日本大震災で、
避難所生活がはじまった数日後、
少年ジャンプが回し読みされたという。
おにぎりや風呂が満たされたら、
次に物語が必要だった。
いや、満たされなくともではないか?
東北だけがやられていて東京が無事で、救助ラインがあることを知れば、
ジャンプとおにぎり一個が交換だったとしても、
人はジャンプが読めないことより、
おにぎりを差し出すのではないだろうか。
人間は、食べて寝て生殖するだけの生物ではない。
考える生き物である。
そこに、情報という物語が、必需なのではないだろうか。
厳密な議論は、他の人に任せます。
ざっくり考えた、僕の説です。
つまり、物語は贅沢品や嗜好品だから、
不要だという奴は、考えてないバカなのだ。
2015年11月13日
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