2015年11月13日

物語は人類に不要か

人は何故物語を見るのか。
よく言われる論は、
「生活必需品ではない」という根拠である。
飯や寝床や服ではない。
エアコンや洗濯機やテレビやネットのような、
準必需品でもない。
筆記用具や紙のような、ないと困るものでもない。

酒や煙草と同様、嗜好品であると。
いわば贅沢品扱いである。

本当にそうだろうか?


情報化社会になったと言われて久しい。
情報は生活必需品か?という議論はどこかでなされているのだろうか。

何故人はここまで情報を得たいのだろうか。
原始的な猿の生活を考えたとき、
あそこに獲物がいる、あそこは危険、
などの情報は生活必需品に等しい。
が、現代人はその情報よりも、
他の情報を必死で得て生きている。

その情報とはどのようなものだろう。
それを、僕は物語である、と言いたいのだ。


まず、物語は物質ではない。

豪華な装丁の本から読み捨ての週刊誌まで、
物質的なものはあるが、
物語はその物質ではなく、中身の情報だ。

漫画は情報か?画集という物質か?
手塚治虫は、自分の絵は記号だと断言している。
つまり、絵には到達していないと。
だとすると手塚の漫画は情報であり、物質ではない。
手塚は大友克洋の出現に、自分に描けない、
絵としての価値を漫画に見いだし、新しい漫画家が誕生したと言った。
以来、漫画は絵としての価値をどんどん高めていく。
一方の極を見ておこう。
「エアギア」(大暮維人)という、ストーリーは全く面白くないが、
画集として素晴らしい漫画がある。
これは物質的な素晴らしさであり、
物語として素晴らしくない。
漫画として価値があるかどうかは、
絵とストーリーの両方が価値がないとしんどいと思う。
手塚の絵は、記号としての絵の良さもあった。
エアギアは画集だと言われるように、「漫画としての価値」はゼロだ。

さて、漫画は物質か、情報か?
ストーリーは情報だが、
そもそもストーリーが糞なら、よほど物質的価値がないと、糞だ。
絵は下手でも、ストーリーが面白いなら、神作である。
手塚治虫や近年では尾田富樫など、代表作家は沢山いる。

絵がうまくなくちゃ漫画家にはなれない、と素人は思うけど、
実際、ストーリーがうまくないと漫画家にはなれない、
と実感するのが、描き始めた者のリアルだ。
(僕は漫画家を目指していたのだが、絵よりストーリーが下手な自覚があって、
映画を撮ればストーリーのことが分かるのでは、と思って、
純粋にストーリーだけの脚本に興味を持った。
以来30年以上脚本のことを考えている)

ということで、漫画の本質はストーリーであり、
漫画も物語であり、情報である。


映画も同様だ。絵がショボくても中身が面白ければ、受け入れられる。
映画、ドラマ、小説、漫画、演劇など、
プロフェッショナルによるものだろうが、
アマチュアによるものだろうが、
それらは、情報である。


情報に課金するのは難しい。
情報化社会以前は、その情報が乗っている物質、
本や雑誌、ビデオなどを売ることで対価とした。
刑事が金を払う「情報屋」という物質のない情報に金を払うのは、特殊だった。
映画館だって、物質を渡すわけではないので、
「入場料」というショバ代(権利)を物質的に売った。
情報化社会では、「配信」に課金するシステムに落ち着きそうだ。
ネットの情報はタダ、テレビの情報はタダ、
という常識から、課金料を上げることは難しく、
かといって物質的に豪華でないとそこそこの金を取れないという、
ジレンマに今陥り始めている気がする。


さて、物語は情報だ。

情報は生活必需品である。
情報とはどのようなものだろう。

その情報そのものが、物語形式である、
というのが僕の主張だ。

短い論理や文だろうが、
長いものだろうが、
それを「理解し」「記憶に格納し、構造化する」というやり方が、
物語をそのように扱うことと、同じである、
と僕は思うのだ。

情報の形式や物語形式なるものを定義せずに言っているので、
検証のしようがないのが申し訳ない。

ただ、事実かフィクションかの差しか、
(一般)情報と、物語の差はないのではないか、
ということを言いたいのである。

真偽不明の噂話、デマ、科学で証明できない謎(幽霊、UFO、オーパーツ、歴史の闇)、
○○は△△なのではないかという仮説、
などは、事実でもフィクションでもない、
中間の物語である。

つまり、情報は三種類の物語だ。
事実という物語。
明らかにフィクションという物語。
中間の物語。

第一者は、ジャーナリスト、科学者から、大人たちが扱うこと。
第二者は、我々作家が扱うこと。
第三者は、殆どの人が扱うこと。

第三者は、第一者と思われたり、時に昇格したりする。
第二者だけが、第一者と関係ないと誤解されている。

実はそうではない。
優れたフィクションは、事実よりも、人間の本質のリアリティーをえぐり出す。
ブラックジャックが完全に嘘の世界か?
否だ。人間のほんとうはこうだ、と真実に迫るから面白いのだ。
真実を戯画化している、その具合が面白いのだ。
優れたフィクションは、形式上は嘘だが、
書かれている内容が真実らしいことなのである。

第三者の噂話は、形式上は本当らしく、内容が真実とは限らないものであることと、
対称的である。

さあ、
では、本当か嘘かだけでしかなく、
情報は物語である。

それは、生活必需品だ。

真実の情報だけを選り分けたい。
それが人生に直結するからだ。


とくにフィクションの物語の提供する情報は、
あそこに獲物がいるとか、あそこは危険だ、
という情報でも、
あの人はこんなことをしている、こんな事件があった、
というジャーナリズムでもない。
人間とはこういうものである、
社会とはこういうものである、という本質的な情報や、
人間とはこうあるべきではないか、という未来の情報、
その他雑学的な情報が、
混ざったものではないだろうか。

逆に、人間とはこうあるべきではないか、人間とはこういうものである、
を、フィクション的な物語以外に、
伝達する手段があるだろうか。

我々は、結局我々が何者なのか知りたい。
物語は、それに答える情報である。
そしてその答えはたったひとつではない。
だから今日も、物語は消費され、
どれだけ物語を消費しても、人は飽きないのだ。

つまり、
人間が人間として生きるために、
物語が必要だ。

生活必需品の中に情報を入れるならば、
物語は生活必需品である。



東日本大震災で、
避難所生活がはじまった数日後、
少年ジャンプが回し読みされたという。
おにぎりや風呂が満たされたら、
次に物語が必要だった。
いや、満たされなくともではないか?
東北だけがやられていて東京が無事で、救助ラインがあることを知れば、
ジャンプとおにぎり一個が交換だったとしても、
人はジャンプが読めないことより、
おにぎりを差し出すのではないだろうか。


人間は、食べて寝て生殖するだけの生物ではない。
考える生き物である。
そこに、情報という物語が、必需なのではないだろうか。


厳密な議論は、他の人に任せます。
ざっくり考えた、僕の説です。

つまり、物語は贅沢品や嗜好品だから、
不要だという奴は、考えてないバカなのだ。
posted by おおおかとしひこ at 12:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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