前記事の続き。
つまり、フィクションの物語というものは、
人間とは、社会とは、こういうものである、
こうあるべきではないか、
という真実を戯画化するために、
フィクション(架空)の設定と構造を利用して描くことである。
真実の設定と構造を使うよりも、
真実がより引き立ち、分かりやすい構造にするために、
架空の設定と構造を利用するのが、
フィクションという物語形式である。
このフィクション的物語形式を自在に扱うためには、
そもそもの中心、
人間や社会はこのようなものだ、という認識の鋭さやオリジナリティが必要であり、
それを描くのに好都合な、
架空の世界の設定と構造をつくる能力が必要で、
それは真実の設定や構造より、
いくぶん描く真実を分かりやすくするように、
作り変えられている必要がある。
(物語の構造がテーマを現すように)
この二つの操作を脳内で可能にするには、
そもそもの才能も必要だけど、
何より人生経験が必要な気がする、
というのが本題だ。
色々な人生経験をして、
人間とはこういうものである、こうあるべきではないか、
という意見や主張がないと、
物語とは詰まらない。
正確にいえば、
独自の人間の見方、
独自の社会(社会とは人間と人間の間にあるもの)の見方、
それらに対する批判精神や理想を見る力、
そのような独自性のあるもの、
しかもそれらが受け入れるのに「いい」もの、
そういうものでない限り、
物語は詰まらないのである。
どこかで聞いたようなもの、
何かをパクって改造したもの、
借りてきたもの、
本当にそう思ってないもの、
幼稚なもの、
が中心にいても、詰まらないのである。
独自の人生観、と一言でいってみる。
それが出てくるのは、人による。
十代?二十代?三十代?四十代?
特殊な経験を早いうちに積むと、早いうちから成熟したり、
特殊な人生観になるかも知れない。
平凡な生き方から、突然独自の人生観が生まれるかも知れない。
人間は、フィクションからも栄養を吸収するけど、
実体験には叶わない。リアリティーの破綻なさにおいては一番だ。
第一、他の人のフィクションからの吸収は、
独自の人生観ではない。他人の人生観だ。
あなた独自の人生観は、
確率的には、早いうちには生まれにくいだろう。
人生経験の数や質や密度が足りないからだ。
一般に三十代になれば、色々な場面を経験してると考えられる。
四十代だともっとだろう。
まあ確率的な話だ。
特殊な経験を積むために、芸の肥やしとして遊ぶ人は沢山いる。
それはそれで特殊な経験だけど、
作家になるには、それがどう特殊かを距離をおいて表現できることも必要だ。
あなたが面白い事件が書けないのは、面白い事件に出会った人生経験が足りないから。
あなたが面白い展開が書けないのは、面白い展開に出会った人生経験が足りないから。
あなたが面白い解決が書けないのは、面白い解決に出会った人生経験が足りないから。
あなたが面白い人物が書けないのは、面白い人物に出会った人生経験が足りないから。
あなたが面白い台詞が書けないのは、面白い台詞に出会った人生経験が足りないから。
あなたが面白いテーマが書けないのは、面白いテーマに出会った人生経験が足りないから。
あなたが面白いバリエーションが書けないのは、
面白いバリエーションに出会った人生経験が足りないから。
たったそれだけのことかも知れない。
旅行をする人もいる。
たとえば画家なら、そこの独自の風景を描けばいい。
カメラマンなら、そこの特殊な光や影をとらえるといい。
作曲家なら、そこの独自の楽器やメロディや音楽文化に触れるといい。
作家なら、そこの人々と話すだけでいい?
否だ。
物語とは変化を描く。人の変化を描く。
あなた自身が変化したり、相手が変化したりしない限り、
旅行で取材したことにはならない。
画家やカメラマンは光景を盗んでくるだけでも成立するけど、
作家は人生経験、すなわち人間の変化を盗んでこなければならない。
作家がとりわけ時間がかかるのは、そういうことだ。
前にも書いたかも知れないが、
「自分の年齢より10歳若い年齢の主人公なら、
自在に書ける」説。
それは、十年前の自分の悩みや不安や問題なんて、
大抵は解決してるからであり、
その時の変化なら、客観的に書けるだろうからだ。
16歳なら6歳の主人公。
22歳なら12歳の主人公。
28歳なら18歳の主人公。
32歳なら22歳の主人公。
40歳なら30歳の主人公。
それなら、書けるだろう。10年も人生の先輩なんだからね。
人生経験を積もう。
積んだから書ける訳じゃないが、
それだけで人間として豊かになれるさ。
2015年11月13日
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