人間というものは、なるべく現状維持を好むものだ。
環境が多少変化しても、
自分の内面はなるべく同じに保とうと工夫する。
習慣の維持や趣味の維持などによって。
内面を変えようとする誰かまたは何かがいるなら、
激しく抵抗する。それは洗脳だからだ。
出来るだけ、否、どうしても、人間は内面の変化を拒む。
にも関わらず、物語とは人間の変化を描くものである。
これは一体どういうことだろう。
映画は、誰か他の人に、主人公が洗脳されて強制的に変化するさまを描くものでは、
勿論ない。
主人公は、自ら内面を変えるのである。
普通、内面を変えない。
なるべく現状維持だ。
にも関わらず、内面を変える事態とはなにか。
そのとんでもない事態を描くのが、物語なのである。
内面を変えるのは怖い。
なるべくなら現状維持がいい。
その恐怖を乗り越えてまで自分の内面を変えるのは、
よほどの動機や理由が必要だ。
内面の変化は、二幕で扱う「障害」のひとつである。
人は、なるべく障害を避ける生き物だ。
リスクや苦労を避け、現状維持を選ぶ生き物だ。
しかし、そうせざるを得ない理由や動機こそが、
物語の原動力だ。
一幕で設定されたこの動機が強ければ強いほど、
内面の変化の恐怖を乗り越え、
自ら何かを「克服」するのである。
内面の変化は、大抵、自分の弱さと向き合い、
これを乗り越えることだ。
弱気とか、話ベタとか、消極性とか、勇気のなさとか、
過去の失敗のトラウマとかだ。
だから、積極的な自分や、勇気のある自分や、もう逃げない自分に、
変わりたいはずだ。
しかし現実は現状維持を選ぶ。
そう変わることは難しく、恐ろしいものだからである。
ところが物語の中では、
そう変化しない限り、前に進めない場面が必ずやってくる。
(大抵クライマックス前、二幕後半が多い)
過去の自分、弱い自分を乗り越えて、
強い自分に生まれ変わること。
全ての物語は、なんらかの成人の通過儀礼である。
そのプロセスが上手く描けていない物語は、
表面的な詰まらない話だろう。
忙しくて見れていなかった、
「キャプテンアメリカ/ウィンターソルジャー」
をようやく見れた。
前評判のわりに、実に退屈な映画だった。
衝撃の展開やアクションは面白かったにも関わらず、である。
人間の内面の変化が、ちっとも描かれていなかったからだ。
キャプテンの内面、
あるいはゲストキャラファルコンの内面の変化が、
何も描けていなかった。
それは、この問いを問えばわかる。
「この映画のテーマは何か?」
アクションとしては面白かったのに、
テーマが何一つ見えてこなかった。
それは、映画としては落第だと思う。
ニックフューリーの祖父の話が一番記憶に残った。
牧歌的な時代、祖父はエレベーターボーイで、チップも弾んで貰っていた。
ところが物騒な時代になってしまった。
祖父が強盗にあい、チップ目当てに鞄をあけろと言われた。
弁当箱に入れたくしゃくしゃの札と、22口径が入っていた。
この挿話が何を意味するのか、よく分からない。
「誰も信じるな」という、
映画全体を貫く世界観のことを言っているのかもしれない。
しかし、キャプテンより、ファルコンより、ニックより、
ブラックウィドゥより、バッキーより、
その祖父の、人を信じなくなった変化のほうが、
映画内で最も大きくて深く、
結果的に僕の心に染みた。
人は、進んで変化しない。
状況や事情や経験が強制的にあって、
変化させられてしまう。
変化は自分で選べない。
つまり、殆どの変化は受動的だ。
映画的な物語とは、
望むと望まざるとに関わらず、
その激流を前に、
自ら痛みや恐怖を伴う、
望むべき方向に、
能動的変化を自分ですることかもしれない。
一言でいうと、殻を破るとか、一皮剥けるとかか。
成長する、とベタに言うこともあるけれど。
(相変わらずメアリースーと比較すると、
メアリースーは変化なんて怖いから絶対にしない)
2015年11月15日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック