2015年11月15日

進んで変化する人はいない

人間というものは、なるべく現状維持を好むものだ。
環境が多少変化しても、
自分の内面はなるべく同じに保とうと工夫する。
習慣の維持や趣味の維持などによって。

内面を変えようとする誰かまたは何かがいるなら、
激しく抵抗する。それは洗脳だからだ。
出来るだけ、否、どうしても、人間は内面の変化を拒む。


にも関わらず、物語とは人間の変化を描くものである。


これは一体どういうことだろう。


映画は、誰か他の人に、主人公が洗脳されて強制的に変化するさまを描くものでは、
勿論ない。

主人公は、自ら内面を変えるのである。
普通、内面を変えない。
なるべく現状維持だ。
にも関わらず、内面を変える事態とはなにか。

そのとんでもない事態を描くのが、物語なのである。

内面を変えるのは怖い。
なるべくなら現状維持がいい。
その恐怖を乗り越えてまで自分の内面を変えるのは、
よほどの動機や理由が必要だ。

内面の変化は、二幕で扱う「障害」のひとつである。
人は、なるべく障害を避ける生き物だ。
リスクや苦労を避け、現状維持を選ぶ生き物だ。
しかし、そうせざるを得ない理由や動機こそが、
物語の原動力だ。
一幕で設定されたこの動機が強ければ強いほど、
内面の変化の恐怖を乗り越え、
自ら何かを「克服」するのである。


内面の変化は、大抵、自分の弱さと向き合い、
これを乗り越えることだ。

弱気とか、話ベタとか、消極性とか、勇気のなさとか、
過去の失敗のトラウマとかだ。

だから、積極的な自分や、勇気のある自分や、もう逃げない自分に、
変わりたいはずだ。
しかし現実は現状維持を選ぶ。
そう変わることは難しく、恐ろしいものだからである。

ところが物語の中では、
そう変化しない限り、前に進めない場面が必ずやってくる。
(大抵クライマックス前、二幕後半が多い)

過去の自分、弱い自分を乗り越えて、
強い自分に生まれ変わること。

全ての物語は、なんらかの成人の通過儀礼である。

そのプロセスが上手く描けていない物語は、
表面的な詰まらない話だろう。



忙しくて見れていなかった、
「キャプテンアメリカ/ウィンターソルジャー」
をようやく見れた。
前評判のわりに、実に退屈な映画だった。
衝撃の展開やアクションは面白かったにも関わらず、である。

人間の内面の変化が、ちっとも描かれていなかったからだ。
キャプテンの内面、
あるいはゲストキャラファルコンの内面の変化が、
何も描けていなかった。
それは、この問いを問えばわかる。
「この映画のテーマは何か?」

アクションとしては面白かったのに、
テーマが何一つ見えてこなかった。
それは、映画としては落第だと思う。

ニックフューリーの祖父の話が一番記憶に残った。

牧歌的な時代、祖父はエレベーターボーイで、チップも弾んで貰っていた。
ところが物騒な時代になってしまった。
祖父が強盗にあい、チップ目当てに鞄をあけろと言われた。
弁当箱に入れたくしゃくしゃの札と、22口径が入っていた。

この挿話が何を意味するのか、よく分からない。
「誰も信じるな」という、
映画全体を貫く世界観のことを言っているのかもしれない。

しかし、キャプテンより、ファルコンより、ニックより、
ブラックウィドゥより、バッキーより、
その祖父の、人を信じなくなった変化のほうが、
映画内で最も大きくて深く、
結果的に僕の心に染みた。



人は、進んで変化しない。
状況や事情や経験が強制的にあって、
変化させられてしまう。
変化は自分で選べない。
つまり、殆どの変化は受動的だ。

映画的な物語とは、
望むと望まざるとに関わらず、
その激流を前に、
自ら痛みや恐怖を伴う、
望むべき方向に、
能動的変化を自分ですることかもしれない。


一言でいうと、殻を破るとか、一皮剥けるとかか。
成長する、とベタに言うこともあるけれど。

(相変わらずメアリースーと比較すると、
メアリースーは変化なんて怖いから絶対にしない)
posted by おおおかとしひこ at 00:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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