よくスポーツにこれが冠せられる事がある。
そもそもの意味は、
スポーツは台本があるドラマがあるわけではないのに、
時に台本があるドラマ以上にドラマチックになることがある、
ということだと思う。
「筋書きのないドラマ」は、
アドリブだらけのぐだぐだのことではない。
誰か他の人が筋書きを書いてないのに、
まるで筋書きがあるようなドラマチックなことを言う。
そもそも台本のないアドリブは、カオスである。
式次第がなく練習してない卒業式は、進行がメタメタだろう。
場の空気を読まないカラオケ選曲は、カオスな進行になる。
プロットなき執筆は、滅茶苦茶になり、
その場で考えるプロポーズの台詞は、わやくちゃになる。
筋書きが用意され、練習できたら、
カオス以上に面白くなることは誰でも知っている。
進行やストーリーというものは、計画的であり、
筋書きをなぞることで秩序を得る。
筋書きがなくて面白いことが出来るのは、
一部のお笑いの天才だけだ。
(お笑い以外にアドリブで良いものは、見たことがない)
ということで、筋書きのないアドリブドラマは、
絶対に面白くない。
スポーツが面白くなるのは、
普段はアドリブドラマと同様のカオスなのだが、
ときに、
「まるで誰かが台本を書いたときのように」、
キャラの濃い面子が集まり、
切磋琢磨の状況になり、
逆転に次ぐ逆転のドラマチックな展開になり、
誰もが予想しなかった結末を迎え、
しかもテーマが炙り出されたときだ。
これを誰かが台本を書いてないだけで、
何故か時がこの場を用意したような感じになることが、
筋書きのないドラマという意味である。
例えば、スポーツドラマを書いてみるといい。
誰かが筋書きを書いたかのような、
よくある詰まらない筋書きになってしまうのなら、
あなたには実力がない。
誰も筋書きを書いていないのに、
まるで神がいるかのようにスルスルとドラマチックが出来上がった、
奇跡であるかのように書かなければならないのである。
さて、ことはスポーツドラマでは終わらない。
スポーツドラマでないドラマの時も、
そう書けなきゃいけないよ。
ということで、昔企画したスポーツ映画の脚本を、
書き始めようとファイルをあけてみた。
もうちょっと取材して、いけそうなら書くかも。
2015年11月15日
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