必ずしもそうしなくてはいいけど、
なんとなくこれをしとくと楽になる。
序盤は大抵主人公の日常が紹介される。
主人公の初登場がインパクト溢れる大活躍シーンだったとしても、
その後は日常に戻るものだ。
その前にオープニングシーン、たとえば主人公のいない場所での事件発生、
があったとしても、
主人公の日常は、はじまって、遅くとも三番目に描かれる内容である。
主人公の日常は、
彼または彼女の、現在の(劇中の)立ち位置を示すものだ。
主人公は普段どんなやつなのか、
職業や年齢や性格や人生観などの、
一部を見るシーンである。
しかし何か起こらないと単なる説明シーンになって、詰まらないので、
何か事件を起こして、それについて何かすると、
退屈な日常シーンでなくなる事が多い。
で、今回は、それが、
傷つけられるシーンだとよい、という考え方だ。
主人公は、日常に傷つけられている。
何かには知らない。物語によるだろう。
物語とは、主人公の変化を描くものだ。
主人公が日常に傷つけられていることがビフォーなら、
傷つけられないように変わったあとが、アフターになる。
つまり、ビフォーアフターを描きやすいフォーマットなのだ。
また、感情移入は自分より下の者への同情から起きやすいことも、
既に議論した(全てではない)。
とすると、日常に傷つけられている主人公は、
少なくとも自分よりいきなり下だと思うことも出来るし、
主人公同様、日常に傷つけられている人は、主人公に同調するだろう。
つまり、
感情移入に関しても有効なのだ。
必ずしもそうしなければならない訳ではない。
僕の好きなタイプの始まり方が、
たまたまそうなのかも知れない。
(たとえば「かいじゅうたちのいるところ」の冒頭30分は、
僕は狂おしく好きだ。しかし、そこから糞映画なのだ。
同じような始まり方で、ラストまで行ききった例は、
「ネバーエンディングストーリー」と対比的に論じられるかも知れない)
最初に主人公は傷つけられる。
名作の芽が、そこにあるような気がする。
2015年11月16日
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