2015年11月16日

最初に主人公を傷つけよう2

注意すべきことは、
この方法論は、容易にメアリースーを生んでしまうことである。


メアリースーは初心者の、あるいはベテランの敵である。

最初に主人公を傷つける行為は、
容易に、
「自分が傷つけられた」ことを書いてしまいがちだ。

そうすると、
「傷ついた自分を分かって欲しい」という構ってちゃんになってしまう。
即ちメアリースーである。

主人公は作者ではない、
という三人称形の原則を思いだそう。
あなたは、他人が傷つく様を描くのであって、
自分が傷つくのを描くのではない。


他人がとあることで傷つき、
もう傷つかない為には成長しなければならず、
その成長を描いて魂を救済してあげるのである。
あなたの書くべきストーリーは、全て他人の話である。

これを自分だと混同してしまうと、
自分が傷つけられたことを、うまく昇華できない。
成長して乗り越える、ではなく、
「恨みを晴らす」で終わってしまう。
原因を自分(内側)ではなく、他の人(外側)に求めてしまう。
「自分は悪くない」からである。

これが、メアリースーの典型例、
「普段は繊細で傷つきやすい俺が、
いざとなると俺ツエー無双になる」
ということの心因的原因である。


つまり成長とは、
「自分のここが悪いところだ」と認める所から始まるのかも知れない。

傷ついた→ここが悪い→克服しなければ→痛みを伴う克服
→もう傷つかない(成長)

というテンプレを選ぶには、
自分を描くことでは恐らく難しい。
他人の内的成長ならば、客観的に見れるだろう。
これが自分なら、

傷ついた→そんな俺を分かって欲しい
→分かってくれる人が続々登場(よしよしされて癒される)
→俺は悪くない
→敵が悪いのだ
→俺ツエー無双
→解決!(内面的に成長していない、幼児的全能感)

というテンプレになってしまうだろう。
典型的なメアリースーだ。


これが厄介なのは、
自分自身を書いているため、
欠点に全く気づかないことである。
あなたはいいかも知れないけど、他の人が見ても詰まらないよ、
という指摘に対して、
何でだよ最高じゃないか、お前は見る目がない、
と、議論が平行線になってしまうことだ。

当然だ。
他の人は、他人の物語として見たいのに、
あなただけが自分の物語を書いているからである。

さぞあなたは気持ちいいだろう。
あなたの傷が解放されるからだ。
一種の箱庭療法になっているからだ。

創作批評における、いわゆるオナニーとは、これのことだ。

自分だけ気持ちよくなっているのは、三人称作品ではない。
我々は、自分と同じだけ、観客を気持ちよくする。
俺の気持ちいいのにお前らがついてきてない、
というのがオナニーであり、
お客様を気持ちよくさせるけど自分は辛いだけ、
というのは商業主義に魂を売る、という。

作者も観客も、同じところを見ながら一緒に上り詰めることを考えることだ。
その方法論が、
他人の傷を昇華する、という方法論なのだ。



コツをひとつ。
自分の傷に似た別のものを見つけること。

たとえば、自分がリアルで振られて傷ついたとしよう。

このとき、振られて傷ついた主人公を書いてはならない。
それは必ず、
「振られた主人公を何故か女たちがチヤホヤし、
何故かモテモテになり、実は主人公がモテ遺伝子最強ということがわかり、
世界中の女をものにする俺ツエー話」というメアリースーになる。
自分は悪くない、ということが奥底にいるということは、
自分の全肯定しかないからである。

たとえば、「会社をクビになった主人公」を書くとよい。
会社をクビになるのは、振られることに少し似ているからである。
会社をクビになり、傷つく様を描くとき、
会社をクビになっているのに、
振られて傷ついたかのように書けるだろう。
そうすると、感情移入が起こりやすい。

会社をクビになったことが、まるで振られたかのように書いてあるので、
ただ会社をクビになった描写より、「深い」からである。

会社をクビになり、新しい職場に面接に行くのなら、
クビになった欠点を表面上は気づかれないように振る舞う、
ということが冷静に書けるはずだ。
振られた男なら、別の女に出会ったら、
振られた原因を隠すのではなく、振られた傷を癒して欲しいと願ってしまう。
それは冷静でない、甘えである。
つまり冷静で客観的であるということは、甘えていないことなのだ。

現実に甘えず、頑張る他人には、
人は思わず肩入れするものだ。
こうして感情移入がひとつずつ行われていくのである。

会社をクビになった原因が、
嘘の会計を正義心で告発したからだとしよう。

世間は嘘をつきながら会計をしているとする。
主人公は嘘をつく男に変化するのが正しい結末か。
否だ。
小悪を騙すのに嘘の会計をして信用されて、
大悪の嘘会計を告発するところまで行くのである。
そうすれば、
嘘をつけない男から、嘘を利用する男へ、
一段成長する物語になるだろう。

ここに、振られた傷の思いを重ねると、
真実味のあるディテールになる。
浮気された女の嘘を許せない個人的思いなどが、
嘘の会計を否定する台詞に、生き生きとしたリアリティーを与えるだろう。

思いだそう。
感情移入とは、
「同じ経験をしたことはないが、自分にも似たような経験がある」
から生まれるのであった。
嘘の会計を告発したことがある人はそんなにいないが、
嘘で傷ついた人はたくさんいる。
誰もが、自分の中の嘘の体験を、
主人公の言動に、「自分を重ねて」見るのである。

あなたが、観客が自分を重ねて見ているかどうかを、
冷静に判断するために、
あなたも他人である主人公に自分を重ねているかどうかを、
チェックする。
その為に、他人を主人公にするのだ。

他人の全く違う事情に、自分の事情の似ているところを見つける。
この構造を、きちんと作れているかどうかだ。

で、ついでに、あなたが傷ついたことに似ていることなら、
執念を持って他人の話を書けるだろう、
という読みだ。




今回の話は、哲学的で、心理学的な深いところを言っている気がする。
他人と自分とか、心を癒すということはどういうことか、とか。
哲学用語も心理学用語もよく知らないので、
自分の言葉で書いた。
専門用語を使えばもっと楽に書けるかもしれない。

でもこの話は、かなり核心の奥義のような気もする。
知ったからって、出来ることとはまた別だけど。
精々耳年増にならないことだ。
実践、実践、実践。
posted by おおおかとしひこ at 11:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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