注意すべきことは、
この方法論は、容易にメアリースーを生んでしまうことである。
メアリースーは初心者の、あるいはベテランの敵である。
最初に主人公を傷つける行為は、
容易に、
「自分が傷つけられた」ことを書いてしまいがちだ。
そうすると、
「傷ついた自分を分かって欲しい」という構ってちゃんになってしまう。
即ちメアリースーである。
主人公は作者ではない、
という三人称形の原則を思いだそう。
あなたは、他人が傷つく様を描くのであって、
自分が傷つくのを描くのではない。
他人がとあることで傷つき、
もう傷つかない為には成長しなければならず、
その成長を描いて魂を救済してあげるのである。
あなたの書くべきストーリーは、全て他人の話である。
これを自分だと混同してしまうと、
自分が傷つけられたことを、うまく昇華できない。
成長して乗り越える、ではなく、
「恨みを晴らす」で終わってしまう。
原因を自分(内側)ではなく、他の人(外側)に求めてしまう。
「自分は悪くない」からである。
これが、メアリースーの典型例、
「普段は繊細で傷つきやすい俺が、
いざとなると俺ツエー無双になる」
ということの心因的原因である。
つまり成長とは、
「自分のここが悪いところだ」と認める所から始まるのかも知れない。
傷ついた→ここが悪い→克服しなければ→痛みを伴う克服
→もう傷つかない(成長)
というテンプレを選ぶには、
自分を描くことでは恐らく難しい。
他人の内的成長ならば、客観的に見れるだろう。
これが自分なら、
傷ついた→そんな俺を分かって欲しい
→分かってくれる人が続々登場(よしよしされて癒される)
→俺は悪くない
→敵が悪いのだ
→俺ツエー無双
→解決!(内面的に成長していない、幼児的全能感)
というテンプレになってしまうだろう。
典型的なメアリースーだ。
これが厄介なのは、
自分自身を書いているため、
欠点に全く気づかないことである。
あなたはいいかも知れないけど、他の人が見ても詰まらないよ、
という指摘に対して、
何でだよ最高じゃないか、お前は見る目がない、
と、議論が平行線になってしまうことだ。
当然だ。
他の人は、他人の物語として見たいのに、
あなただけが自分の物語を書いているからである。
さぞあなたは気持ちいいだろう。
あなたの傷が解放されるからだ。
一種の箱庭療法になっているからだ。
創作批評における、いわゆるオナニーとは、これのことだ。
自分だけ気持ちよくなっているのは、三人称作品ではない。
我々は、自分と同じだけ、観客を気持ちよくする。
俺の気持ちいいのにお前らがついてきてない、
というのがオナニーであり、
お客様を気持ちよくさせるけど自分は辛いだけ、
というのは商業主義に魂を売る、という。
作者も観客も、同じところを見ながら一緒に上り詰めることを考えることだ。
その方法論が、
他人の傷を昇華する、という方法論なのだ。
コツをひとつ。
自分の傷に似た別のものを見つけること。
たとえば、自分がリアルで振られて傷ついたとしよう。
このとき、振られて傷ついた主人公を書いてはならない。
それは必ず、
「振られた主人公を何故か女たちがチヤホヤし、
何故かモテモテになり、実は主人公がモテ遺伝子最強ということがわかり、
世界中の女をものにする俺ツエー話」というメアリースーになる。
自分は悪くない、ということが奥底にいるということは、
自分の全肯定しかないからである。
たとえば、「会社をクビになった主人公」を書くとよい。
会社をクビになるのは、振られることに少し似ているからである。
会社をクビになり、傷つく様を描くとき、
会社をクビになっているのに、
振られて傷ついたかのように書けるだろう。
そうすると、感情移入が起こりやすい。
会社をクビになったことが、まるで振られたかのように書いてあるので、
ただ会社をクビになった描写より、「深い」からである。
会社をクビになり、新しい職場に面接に行くのなら、
クビになった欠点を表面上は気づかれないように振る舞う、
ということが冷静に書けるはずだ。
振られた男なら、別の女に出会ったら、
振られた原因を隠すのではなく、振られた傷を癒して欲しいと願ってしまう。
それは冷静でない、甘えである。
つまり冷静で客観的であるということは、甘えていないことなのだ。
現実に甘えず、頑張る他人には、
人は思わず肩入れするものだ。
こうして感情移入がひとつずつ行われていくのである。
会社をクビになった原因が、
嘘の会計を正義心で告発したからだとしよう。
世間は嘘をつきながら会計をしているとする。
主人公は嘘をつく男に変化するのが正しい結末か。
否だ。
小悪を騙すのに嘘の会計をして信用されて、
大悪の嘘会計を告発するところまで行くのである。
そうすれば、
嘘をつけない男から、嘘を利用する男へ、
一段成長する物語になるだろう。
ここに、振られた傷の思いを重ねると、
真実味のあるディテールになる。
浮気された女の嘘を許せない個人的思いなどが、
嘘の会計を否定する台詞に、生き生きとしたリアリティーを与えるだろう。
思いだそう。
感情移入とは、
「同じ経験をしたことはないが、自分にも似たような経験がある」
から生まれるのであった。
嘘の会計を告発したことがある人はそんなにいないが、
嘘で傷ついた人はたくさんいる。
誰もが、自分の中の嘘の体験を、
主人公の言動に、「自分を重ねて」見るのである。
あなたが、観客が自分を重ねて見ているかどうかを、
冷静に判断するために、
あなたも他人である主人公に自分を重ねているかどうかを、
チェックする。
その為に、他人を主人公にするのだ。
他人の全く違う事情に、自分の事情の似ているところを見つける。
この構造を、きちんと作れているかどうかだ。
で、ついでに、あなたが傷ついたことに似ていることなら、
執念を持って他人の話を書けるだろう、
という読みだ。
今回の話は、哲学的で、心理学的な深いところを言っている気がする。
他人と自分とか、心を癒すということはどういうことか、とか。
哲学用語も心理学用語もよく知らないので、
自分の言葉で書いた。
専門用語を使えばもっと楽に書けるかもしれない。
でもこの話は、かなり核心の奥義のような気もする。
知ったからって、出来ることとはまた別だけど。
精々耳年増にならないことだ。
実践、実践、実践。
2015年11月16日
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