2015年11月17日

他人と自分、統計と個人、共感や置き換え

たとえば女性が、
「電車に痴漢が多くて困る、これは社会問題だ」と言うと、
男は「全ての男は痴漢じゃない」と、
「俺個人は悪くないし、俺を犯罪者扱いしないでくれ」
と思う。

たとえば、
「早生まれ(1-3月生まれ)は、同学年の子供たちに対して発育が遅いため、
小学校においては体育など不利で、成功体験を積めず、
人生を切り開く力に乏しい
(実際、プロスポーツ選手には4-8月生まれの人たちが圧倒的に多い。
これは統計的事実)」
という説を聞くと、
「俺は3月生まれだが、そんなことはなかった」と反論する人がいる。

集団の話をしているのに、自分個人に引き付けて考えるのは、
共感の力である。
抽象的な人間を、自分という人間に置き換える理解である。
これが、誤解を生む原因だ。


男という集団とあなたは、とりあえず関係ない。
何月生まれという集団とあなたは、とりあえず関係ない。
他人と自分を切り離して考えなければならないとき、
自分に置き換える人は、
抽象的な議論が出来ない人である。

人間には共感の力がある。
他人の話を自分に置き換えて考える。
それにはある種の偏向があって、
複数の登場人物がいると、
自分と近い人間を置き換える傾向があると思う。

痴漢の話を聞いた男は、触られる側より、
触る側を想像しやすい。


さて、これの厄介なところは、
抽象的な他人の話と自分に置き換えていることとを、
混同していることに気づかないことにある。

女性「女性差別だ」
男性「俺は差別していないから問題なし」

になってしまう。

女性「女性差別だ」
男性「俺個人はおいといて、男性たちが女性を差別している社会構造は現にある。
システムが個人を変えてしまうのはおかしい。
システムを変えよう」

となるべきなのだ。
(この男性自身が無意識に差別していることと、
システムを変える理解を示すことは、本来別次元のことだ。
しかし現実には、このような男性すら、
ちょっとした蔑視があっただけで個人的に放逐されてしまう。
ここでも、集団と個人を混同してしまう現象がある。
僕は極論、教師が幼児性愛者でも、教職をきちんとしていれば問題なしと考える)


集団と個人、他人と自分を、切り離して、
抽象的に考えられるかどうか、
という話をしようとしている。

どうしてこんな話をするかというと、
「物語は、自分を主人公にしてはいけない」
という原則を思い出すためだ。


ここからは仮説にすぎないが、
ついつい自分を主人公にしてしまい、
世界を切り開く勇気がなくチヤホヤされたい癖に、
幼児的全能感だけはいっちょまえの、
メアリースーに取り憑かれている、
客観性のない作者は、
「俺は痴漢しない」と、
他人と自分を混同するタイプなのではないかと思う。
(たとえば糞樋口真治に、痴漢の話を振ったらそう答えるのではないか?)



感情移入とは、
他人の話なのに自分に置き換えて考えてしまうこと。
つまり共感の力を利用している。
逆に、抽象的な人間の集団について議論するとき、
他人の話として、自分から分離して考えなければならない。
つまり、共感の力に呑まれてはならない。

物語を書くときは、共感の力が作用するように、
他人の話を書かなければならない。
自分に同情されることが目的ではない。
他人に共感する愉しみを提供することが目的である。

その共感対象は、あなたではない。
あなたが作り出した、別の他人であり、
あなたもわたしも観客も、その別の他人に、
まるで自分のように共感・感情移入するのである。



自分とか他人とか、ややこしいなあ。
その辺をうまく言葉にしないと、どんどん分かりにくくなるね。
posted by おおおかとしひこ at 14:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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