どうしてこれCGと言われるとガッカリするのだろう。
なんだ、本物じゃないのか、とガッカリするのだろう。
逆に言うと、本物が写っていると興奮するということだ。
これホントにやったんだ!ということに。
僕は、CGがよくないのは、
全てがコントロールされているからだ、と思っている。
CGを作ってみれば分かるが、
それはそれは、何度も何度もパラメータを調整して、
「イメージ通りの」ものを作る工程だらけである。
CGは高い。それは、その手間賃(人件費)だ。
にも関わらず、その手間賃に見合う価値がCGにあるかなあ。
同じ金使って、着ぐるみや特撮にしたほうが、
愛すべきものが出来るんじゃないかなあ。
僕はフィルム世代だから、
映画はモノだと思っている。
本が電子書籍にとって変わられるとはと思っていない。
本はモノだ。
電子書籍は情報にすぎない。
情報を買うのと、モノを買うのはまるで違う。
CGはこれに似ている。
本に対する電子書籍みたいだ。
情報としては価値があるかも知れないけど、
モノとして所持したいものではないかんじ。
そりゃそうだ。
仮想空間内の実在であり、
この世に実在していないものだから。
だからCGは、どんな出来が良くても、
この世に実在していない感じがぬぐえない。
この世に実在しているものに関することが、
映画だ、という見方を、CGは教えてくれる。
正確にいうと、この世にないものでも、
この世に実在しているもので表現する、
ということが、芸術(工芸としてのアート)なのではないかと思うのだ。
つまりだ。
最近のデジタル撮影の映画は、
モノとしての価値がある映画を作ってない感じがする。
フィルム撮影に拘ってCM業界に来たのだが、
そろそろCMもフィルムレスになりそうだ。
デジタルデータのやり取りが、
モノを作ってる感覚をどんどん失わせていく気がする。
何故CGはガッカリするのだろう。
モノじゃないからだ。
逆に、ぼくらは、モノだから価値を感じる。
たとえば同じサービスでも、
人がやってくれるほうが、デジタルサービスより上だと思う。
ロボットがやるのは「味気ない」と嫌われる。
我々は、逆に、味を求めていることが、この言葉から分かる。
(何度か書いているが、いけちゃんをCGにするのは僕は反対だった。
コマ撮りのクレイが理想だった。実在するモノでやりたかった。
ところが、プロデューサーの引いた予算では、CG費は2000万。
とても本編全部をクレイでカバーできる予算ではない。
しかもメインCG費としてもチープな値段だ。
つまりは、CGは代替品としての予算しか与えられていない。
だから、「代替品」の表現にしかならない。
僕はプロデューサーにもなりたいなあと思ったのは、
こうした間違った予算の引き方を目の当たりにしたからだ)
この世に実在しているモノに、我々は感情移入する。
初音ミクは記号としてはいいけど、
感情移入の対象には永遠にならないと思う。
(いけちゃんが少し感情移入できるのは、
怒って赤い岩になったときだ。あの岩は実在の立体だ)
CGはどこまでいっても「架空の約束事」に過ぎない。
芸術とは、
この世の実在に対して、
どのような実在で答えるか、ということではないかと、
僕は考える。
2015年11月18日
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今回のエントリーはなるほどと納得する場面も多い反面、CGを有効利用するにはどうしたらいいのか?という疑問も湧きました。
大岡さんはどのようにお考えでしょうか?
(CGを使うことそのものに反対ということでしたらここで終わりなのですが、どうも文面上からはCG全否定というわけでもなさそうでしたので)
「カニを食う金がないからカニカマで我慢してくれ」以外の使い道ないのでしょうか・・・。
カニの代わりにカニカマを食べるから不満が出るのでは。
カニカマをマヨネーズで和えたサラダは美味しい。
つまり、カニカマとして使うのがいいのでは。
僕はレタッチ(顔の修正ではなく)あたりがCGの落とし所と昔から思っているのですが、
なかなか賛同が得られず、
ああみんなCGについて無知なのだなあと思います。
サンプリングで音楽は何でも出来る訳じゃなかった、
ということを、CGについても同様に考えられるかどうかかな。
モデリングを含めたフルCG世界、
またはレタッチ(古い言葉で視覚効果)、
あたりがCGを生かす方法かなあ。
レタッチですか…納得です。
フルCG作品を除くと、CGなのか実写なのか以前に、使ってるのか使ってないのかわからんような地味なところに使うのがいいのかもしれませんね。
参考になりました。
これからもブログ更新楽しみにしております。