自分は特別なのだと誰もが思いたい。
しかし、だからこそなのか、
他人が自分が特別だなどと自称するのは気分が悪い。
自慢話もいい加減にしろと飲み屋で思うのは、
つまりはそういうことだ。
飲み屋なら酒の席で無礼講だ。
これが創作になると厄介だ。
それはメアリースーに化けて行く。
ファンタジー世界のメアリースーは見分けやすい。
王族の血を引いている、ドラゴン一族である、
右手に悪魔を封印している、実は不老不死で100万年前から生きている、
世界を一瞬で滅ぼせる、
などなどの中二設定がその兆候で、
見分けやすいからである。
(もっとも、このような設定だけが必ずしもメアリースーではない。
このような設定の主人公にがっつりドラマ、
すなわちコンフリクトがあれば、
それは一本の素晴らしい話になりうる。
問題はドラマ、すなわちコンフリクトがないこと、
大抵はチヤホヤされるだけの場面があり、
何故か真の力を一回だけ解放して俺ツエーの欲望を放っておしまいなところだ)
舞台が現実的なものは、だんだん見分けにくくなる。
何故か超能力持ち、絶対音感持ち、サバン症候群、
などは見分けやすい兆候だ。
IQ300の大天才、Rhマイナス、オッドアイなどもそうだろう。
これが更に現実的舞台だと、
殺人経験者(刑務所帰り)、政治に詳しい、組織犯罪に詳しい、
警察やヤクザと繋がりがある、
などだろうか。
メアリースーを見分けるコツは、
その「凄い設定」が、物語に生かされているか、
だろう。
一回だけ使うのじゃなくて、
それを使い倒す前提で設定を組み、
縦横無尽にその設定を使いきってるか、
というあたりがチェックポイントかな。
つまり、メアリースーの特別設定は、
ハッタリなのだ。
たとえば、極真空手4段という特別設定をするとしよう。
その人が凄いという設定だけあって、
本編内では使われない、設定倒れだとメアリースーだ。
喧嘩の場面や喧嘩抑止の場面が一回程度でもメアリースーの確率が高い。
空手などどうでもよく、人間が凄いという場面があれば、
メアリースーではない。
武道というものは空手が凄いだけでなく、人間を凄くする。
それはイカツイとかゴツゴツしてるとかの表面的なことではなく、
内面の話である。
その内面のやり取りが書けなければ、空手4段を描いたことにはならない。
にもかかわらず、空手4段設定だけでハッタリをかますのがメアリースーだ。
なぜか。
誰もが、自分を特別だと思いたいからである。
たいした自分じゃないくせに、
たいした自分だと思われたくて、
ハッタリをかまし、
自分が凄いんだという架空設定を作りたがるのである。
それは誇大妄想にすぎない。
だって実体のない架空設定なんですもの。
むしろ、中身のない男がハッタリをかまして、
ばれないように頑張って生きた結果、
そのハッタリに負けない中身が出来上がる、
というコメディの傑作「ギャラクシークエスト」
「サボテンブラザーズ」「スクールオブロック」、
漫画「カメレオン」のほうが、
余程自分というものをきちんと観察しているというものだ。
自分は特別だと思いたい。
しかし特別でもなんでもなかった。
その絶望に慣れていくことが、人間だ。
主人公をメアリースーにして、いつまでも誇大妄想してるのは、
要するに幼稚なのである。
創作は、幼稚園ではない。
大人たちの娯楽である。
もしメアリースーしか書けないけどどうすればいいですか?
という質問があるのなら、
誇大妄想ばっかりしてないで、
大人になってから考えなさい、と答えるべきだろう。
2015年11月18日
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