2015年11月18日

誇大妄想

自分は特別なのだと誰もが思いたい。
しかし、だからこそなのか、
他人が自分が特別だなどと自称するのは気分が悪い。

自慢話もいい加減にしろと飲み屋で思うのは、
つまりはそういうことだ。

飲み屋なら酒の席で無礼講だ。
これが創作になると厄介だ。
それはメアリースーに化けて行く。


ファンタジー世界のメアリースーは見分けやすい。
王族の血を引いている、ドラゴン一族である、
右手に悪魔を封印している、実は不老不死で100万年前から生きている、
世界を一瞬で滅ぼせる、
などなどの中二設定がその兆候で、
見分けやすいからである。
(もっとも、このような設定だけが必ずしもメアリースーではない。
このような設定の主人公にがっつりドラマ、
すなわちコンフリクトがあれば、
それは一本の素晴らしい話になりうる。
問題はドラマ、すなわちコンフリクトがないこと、
大抵はチヤホヤされるだけの場面があり、
何故か真の力を一回だけ解放して俺ツエーの欲望を放っておしまいなところだ)


舞台が現実的なものは、だんだん見分けにくくなる。
何故か超能力持ち、絶対音感持ち、サバン症候群、
などは見分けやすい兆候だ。
IQ300の大天才、Rhマイナス、オッドアイなどもそうだろう。

これが更に現実的舞台だと、
殺人経験者(刑務所帰り)、政治に詳しい、組織犯罪に詳しい、
警察やヤクザと繋がりがある、
などだろうか。

メアリースーを見分けるコツは、
その「凄い設定」が、物語に生かされているか、
だろう。
一回だけ使うのじゃなくて、
それを使い倒す前提で設定を組み、
縦横無尽にその設定を使いきってるか、
というあたりがチェックポイントかな。

つまり、メアリースーの特別設定は、
ハッタリなのだ。

たとえば、極真空手4段という特別設定をするとしよう。
その人が凄いという設定だけあって、
本編内では使われない、設定倒れだとメアリースーだ。
喧嘩の場面や喧嘩抑止の場面が一回程度でもメアリースーの確率が高い。
空手などどうでもよく、人間が凄いという場面があれば、
メアリースーではない。
武道というものは空手が凄いだけでなく、人間を凄くする。
それはイカツイとかゴツゴツしてるとかの表面的なことではなく、
内面の話である。
その内面のやり取りが書けなければ、空手4段を描いたことにはならない。
にもかかわらず、空手4段設定だけでハッタリをかますのがメアリースーだ。


なぜか。

誰もが、自分を特別だと思いたいからである。
たいした自分じゃないくせに、
たいした自分だと思われたくて、
ハッタリをかまし、
自分が凄いんだという架空設定を作りたがるのである。
それは誇大妄想にすぎない。
だって実体のない架空設定なんですもの。

むしろ、中身のない男がハッタリをかまして、
ばれないように頑張って生きた結果、
そのハッタリに負けない中身が出来上がる、
というコメディの傑作「ギャラクシークエスト」
「サボテンブラザーズ」「スクールオブロック」、
漫画「カメレオン」のほうが、
余程自分というものをきちんと観察しているというものだ。


自分は特別だと思いたい。
しかし特別でもなんでもなかった。
その絶望に慣れていくことが、人間だ。
主人公をメアリースーにして、いつまでも誇大妄想してるのは、
要するに幼稚なのである。


創作は、幼稚園ではない。
大人たちの娯楽である。

もしメアリースーしか書けないけどどうすればいいですか?
という質問があるのなら、
誇大妄想ばっかりしてないで、
大人になってから考えなさい、と答えるべきだろう。
posted by おおおかとしひこ at 14:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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