小説入門的サイトを今更徘徊してたりするのだが、
どこかで見たこの分類がとても心に残った。
エンタメは、ストーリーに付随する感情や落ちを書く。
純文学は、ストーリーよりも、いかに詩的に書けるかだ。
というものだ。
そういえば高校生の頃の国語で、
志賀直哉「城崎にて」の一節、
蜂の死骸を蟻が運んでいる文章を読まされたことがあった。
僕は、この話に落ちがない、と感想を述べたものだ。
そうじゃなかったのだ。
これは命の儚さを蜂と蟻に見立てて、
美しく表現している文章だったのだ。
小説を少し書いてみて、
文章を美しく書くことの難しさを体験した。
とくに地の文。
僕は美しい詩的な台詞なら書ける。
問題は地の文でもそれが出来るかだ。
純文学とはストーリー展開や落ちや伏線の見事さよりも、
文章そのものの美しさや、
書かれていることの詩的な内容に、
重きを置く(こともある)、というその分類が、
結構目から鱗だった。
あまり純文学とは何かについて考えてこなかったからかも、だけど。
ようやく映画に戻そう。
ざっくり言うと、エンタメ小説はハリウッド映画、
純文学はヨーロッパ映画に近い。
フランス映画、イタリア映画は時に難解だと言われる。
それは、ストーリー展開や落ちや伏線の見事さや、
テーマにうまく落ちてるかとか、
人間の感情が描けているか、
焦点が目が離せないか、よりも、
この場面は詩として美しいか、
に、時に重きを置くスタイルだからである。
写真としての美、造形美、音楽的美など、
ストーリーの美より、描写の美のほうが優先されることがある。
(または、多い)
人生とはこういうものだ、
を、ハリウッド映画なら、事件と解決の一連の流れから、
明らかに分かるように書く。
ヨーロッパ映画は、
もっと断片的に、詩のような描写で描く。
先日、未見だった「ミツバチのささやき」を見た。
ハリウッド的には退屈極まりない映画である。
しかし映像美や、小さなカットの長回しが、
実に人生の断片を詩的に撮っていたと思う。
ストーリーテリングとしては失格レベルだ。
しかし、これも映画だという見方も、
世の中にはあるということだ。
ハリウッド映画に疲れたら、
こういう映画を見るのもいい。
でもさ、フィルム撮影だからいいのであって、
デジタル撮影だとヘボいんじゃね?と最近のヨーロッパ映画を心配してしまう。
(そういえばあまり見ない)
たとえば岩井俊二と名カメラマン篠田昇のコンビが撮った映画には、
いくつかそういう映像美の詩だけで見せるものがある。
アンドゥとかスワロウテイルとか。
日本では絶滅しつつある流派だとも言える。
つまり日本には、美しい詩が足りない。
歌が流行しないのも、詩が足りないからだ。
この二十年くらいで、
アメリカ的合理主義が浸透しすぎたのではないか?
そろそろ詩的な映画を撮る人が現れてもいいかも知れない。
(でもデジタル撮影では無理かも知れない。
じゃあフィルムなら?
ゼラチンシルバーラブって、とっておきの糞映画だよね?)
僕は滅茶苦茶面白い娯楽的ストーリーが殆どで、
ほんの少しそんな詩的なものが含まれるのが、
理想ではないかと思っているけれど。
最近のCMは、娯楽的ストーリーを捨てて映像美に走るがそこに詩がない。
(へんてこなモノローグは乗っかる)
最近の邦画は、娯楽的ストーリーはへぼく、キャストの人気頼みで、
詩を足す予算も与えられていない。
日本の映像文化は、少し危機である。
僕はこれを救うのは、面白いストーリーだと考えている。
詩では救えないと思う。
村上春樹は読んでないけどきっと純文学なのだろう。
映画版ノルウェイの森は糞だったね。
2015年11月21日
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