2015年11月23日

エンタメ小説と純文学の違い2

この項をさらに深く考えてみる。

純文学は詩だという説。


僕の言葉でこれをとらえ直すと、
「その文章でしか表現出来ない感情」
ということになる。

ある感情を、短い言葉で表す。

うれしい、悔しい、たのしい、明るい、おいしい、
糞野郎、殺意、悲しい、あたたかい、
などなど。

これらは、単純ゆえに強い感情だ。

アメリカ映画は、感情をシンプルに、力強くする傾向にある。
芝居にもそれは表れ、ひとつの強い感情を徹底的に表現する。

アメリカ映画の精華のひとつはミュージカルだ。
一曲まるまるかけて、たったひとつの感情を表現するのに長けている。
レリゴーを思い出すといい。
「ありのままのわたしでいいの」を表現するのに、
なんと強く織り上げていくことか。
日本人はこういうのは苦手だ。
照れや恥という文化があり、もう少し複雑なことを言うのが高尚であると考える。
しかし繊細なものは時に弱く、
単純で強い、原始的な感情に張り倒されることが多い。
日本映画がアメリカ映画に負ける(やすい)のは、
その強さにおいてだ。

しかし、
人間というものはもう少し複雑なものだ。
だからもう少し言葉を足していく。

うれしいという感情ひとつとっても、
好きなあなたと偶然電車が一緒になる嬉しさと、
定年退職するときに花束を貰う嬉しさと、
初めて出たバスケの試合で3Pを決めた嬉しさは、
随分と違う感情だ。

言葉と感情は一対一対応ではない。
だから言葉を組み合わせる。
組み合わせるだけでなく、
これこれこういう場面で感じるような感情、
とたとえを増やしていく。

(ちなみに、言語や文化が違うと、
一語のカバーする範囲が大変異なる。
たとえばポルノグラフィティで有名になった、
サウダージという言葉は、ポルトガルの言葉で、
日本語一言で言えない感情を示す。
Wikiを引用すれば、

単なる郷愁(nostalgie、ノスタルジー)でなく、温かい家庭や両親に守られ、無邪気に楽しい日々を過ごせた過去の自分への郷愁や、大人に成長した事でもう得られない懐かしい感情を意味する言葉と言われる。だが、それ以外にも、追い求めても叶わぬもの、いわゆる『憧れ』といったニュアンスも含んでおり、簡単に説明することはできない。

だ。一言に訳せない単語は諸外国語にも沢山あるだろう)


純文学とは、言葉を足すのでは足りず、
新しい単語を発明するのでも足りず、
場面でたとえるのも足りず、
長い文章で示すことになるほどの、
複雑妙味な微妙な感情を、表現したものだ、
と僕は考える。

だから一語違っても違うものの表現になる。
繊細で複雑なものを描くためにだ。

純文学とは何か。
その長い文章でしか表現し得ない、
これまで誰も表現したことのない感情を、
表現し得たものを言う。(と僕は考える)

絵画にたとえて考えるといい。
「新しいタッチの絵」だということだ。

色彩感覚、線、テクスチャー、構図、モチーフの選択、
筆のタッチ。
それらが全く新しいものが、新しい絵ということだ。

印象派のタッチは、それまでの油絵を変えた。
従来のカッチリした絵では表現できない、
ふわりとした光線のタッチをつくった。
大友克洋は、記号的でディズニー的だった漫画に、
本格的な塊的デッサンのペン画を持ち込んだ。
この現実感重視の画風は現在なお主流だ。
タツノコアニメは、当時のアメコミ的なキャラクターデザインを、
手塚アニメへのアンチテーゼとして、
リアル路線を開拓した。
それはたとえば装甲騎兵ボトムズあたりでピークを迎え、
以後衰退して萌え全盛に至る。

新しいタッチの開発は、
それでしか表現できない「感じ」(クオリアといってもいいか)
を表現するためにある。
真似すれば流行するし、
時代の感性に合えば皆が楽しむ。

純文学は、その新たな「感じ」を、
言葉の組み合わせ、場面、長い文章で作るものだ。

村上春樹が難解だと言われるのは、
アメリカ映画の文法で読むからで、
そういうタッチの発明でしかないと思えば、
物語内容から意味を読み取るのではなく、
言葉の組み合わせ(敢えて言葉遊びと言おう)から、
新しい「感じ」を読み取ればいいのではないか。
(結局読んでないけど、ノルウェイの森の映画を見る限り)


さて。

映画に戻ろう。

映画に純文学はあるか。
60年代から80年代くらいまでの、日本映画やヨーロッパ映画には、
それらを追求したものもあった。
このシャシンやモンタージュでしか表現できない「感じ」を、
表現しようとした。
フランスやイタリアに多かったと思う。
先日ようやく見れた「ミツバチのささやき」もそんな一本だ。

それらは、芸術映画みたいなくくりに、
いつの間にかなってしまった。
その繊細な感じは、万人には分かりにくく、
ある程度の教養がいるからだ。
原始的で分かりやすいアメリカ映画が、駆逐するのも同然である。

90年代から00年代の単館系は、
これらの発掘に力を入れていたと思う。
ウォンカーワイや岩井俊二やダニーボイルが、
世間の流行になったときもあった。

しかしそれらも、シネコンに駆逐されつつある。
(恵比寿ガーデンプレイスも銀座シネスイッチも閉館し、
渋谷シネマライズは虫の息だ。
学生時代いた京都で言えば、朝日シネマは潰れ、
祇園会館も映画はやっていない。みなみ会館はまだあるのか)

シネコンの方法論は、アメリカ映画の方法論に近い。
合理性を尊ぶ。
POSシステム(売上の比率で仕入れる)導入のコンビニが、
個人仕入れ(キュレーション)の個人商店を、
金銭的に駆逐したことと同じである。


さて。
シネコンは勝ったのか?
駆逐はしたけど、
売上もあったけど、
その帝国主義的成長主義に、限界の悲鳴が聞こえつつある。
原作の映画化工場と化した邦画は、崩壊寸前で、
デジタルバリバリのハリウッドも、最近ヤバイ。

合理化は、工場化のことである。
効率や生産性の優先である。

我々人間は、工場で幸せになるのか?
という問いと同じだ。
安価で大量にあるようになることが幸せか、
その安心はないけども人の感じが幸せか、
という話になる。

日本文学は、純文学の芥川賞と、エンタメの直木賞に、
うまく住み分けてきた。ように思う。
(最近の芥川賞の凋落が激しく、
火花はテコ入れという噂もある。
どのみち読んでないので噂しか知らない)

映画は、エンタメだけに駆逐され、
純文学が行き詰まり、
王蟲が死体になるように、エンタメが死体になりつつある。

さて。

あなたは新しく何を書くのだろう。

それは時代をどう切り開くのだろう。


脚本という形式で、それを表現できるかどうかについては、
100%確信はない。
しかし、ストーリーを表現できる最もソリッドで本質的なものは、
日本語を使う限り、伝統的脚本形式しかない。

日本語を使わなければいいんじゃないか、と、
ポップスは英語サビを使った。
75調を脱すればいいんじゃないか、と、
ポップスはメロ先やラップに走った。
その結果は現在の惨さだ。



多分。

まともに日本語を駆使できる、
これらすべてを分かった上で、
面白いストーリーでありながら、
新しい感情を表現しているものが、
天下を取ると思う。
ある種の集大成というか、高いレベルで融合しているというか。

僕は多分、そういうものを書こうとしている。
posted by おおおかとしひこ at 09:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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