2015年11月23日

その純文学へ、全員を連れていけるか

前記事の続き。

こうとしか表現できないような感情。
それが存在するのは分かる。
繊細で、複雑で、入り組んだ、人間を描くとはそういうことだ。

だがしかし。
その感情へ、全員を連れていけるか?
あるいは、全員を連れていくことに意味があるか?


全員を、その感情へ連れていけるかは、
あなたの実力次第である。
全員を、その感情へ連れていく意味は、
あなたが責任を持つことである。


大抵は、メアリースーが支配する。

あなたしか味わっていない辛い感情を、
誰かわかってほしいという理由で、
創作ははじまることが多い。

だが、あなたがどや顔して書いたとしても、
あなただけの理解を全員が理解するには難しい。
大抵、自分しか分からない表現になっているからだ。
それを独りよがりという。
あなたは、あなたしか理解しないものを書くのではなく、
あなたに会ったことがない人も、
世界の裏側にいる人でも、
敵でも、
理解できるように、書かなければならない。
客観的であるとは、そういうことだ。

また、
その感情に皆を誘導して、
なんの意味があるのかについては、
あなたが責任を持たなくてはならない。

あなた独自の辛い感情に全員をしたとして、
それで、あなたがスッキリしては意味がない。

作品というものは、
その感情へ皆が至ることで、
世界がよりよくなるものであるべきだ。

下らない道徳を説けと言っている訳ではない。
あなたの独自の感情に同調することが、
価値があるようにせよ、
ということである。


たとえば、
僕は抽象画があまり好きではない。
具象画が前提で、そのアンチテーゼという感情しかないからだ。
かつて絵は具象であった、
しかし、これも絵ではないか、これも絵ではないかと、
抽象画はプレゼンをしてくる。
それがうっとおしいだけに見える。

あなたが描く純文学という感情は何か。
サウダージのように、
造語でよいから、ひとつ名前を与えてみよう。

その感情を味わう価値はあるのか。

ポジティブである必要はない。
「着ては貰えぬセーターを寒さこらえて編んでます」
の感情を味わうことは、
大人のたしなみである。
コーヒーを飲む権利が大人にはあるように、
世の中にある、
ありとあらゆるネガティブからポジティブの、
全ての感情を味わう権利が大人にはある。
流行りの(もう流行りでもないか)NTRという性癖すら、大人には快感である。


あなたの作品の純文学的感情は何か。
それはテーマとどのような関係か。
不可分だろう。何故ならそれは中心にいるものだからだ。

その感情へ、全員を迷わずに連れていけるか。
その感情へ、全員を連れていくことに責任が取れるか。
その感情へ、皆を満たすことに、意味があるか。

その支持者が多いものが、
世の中で名作と言われる。


あなたは、
新しい、しかも名作を、
創らなくてはならない。
posted by おおおかとしひこ at 12:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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