前記事の続き。
こうとしか表現できないような感情。
それが存在するのは分かる。
繊細で、複雑で、入り組んだ、人間を描くとはそういうことだ。
だがしかし。
その感情へ、全員を連れていけるか?
あるいは、全員を連れていくことに意味があるか?
全員を、その感情へ連れていけるかは、
あなたの実力次第である。
全員を、その感情へ連れていく意味は、
あなたが責任を持つことである。
大抵は、メアリースーが支配する。
あなたしか味わっていない辛い感情を、
誰かわかってほしいという理由で、
創作ははじまることが多い。
だが、あなたがどや顔して書いたとしても、
あなただけの理解を全員が理解するには難しい。
大抵、自分しか分からない表現になっているからだ。
それを独りよがりという。
あなたは、あなたしか理解しないものを書くのではなく、
あなたに会ったことがない人も、
世界の裏側にいる人でも、
敵でも、
理解できるように、書かなければならない。
客観的であるとは、そういうことだ。
また、
その感情に皆を誘導して、
なんの意味があるのかについては、
あなたが責任を持たなくてはならない。
あなた独自の辛い感情に全員をしたとして、
それで、あなたがスッキリしては意味がない。
作品というものは、
その感情へ皆が至ることで、
世界がよりよくなるものであるべきだ。
下らない道徳を説けと言っている訳ではない。
あなたの独自の感情に同調することが、
価値があるようにせよ、
ということである。
たとえば、
僕は抽象画があまり好きではない。
具象画が前提で、そのアンチテーゼという感情しかないからだ。
かつて絵は具象であった、
しかし、これも絵ではないか、これも絵ではないかと、
抽象画はプレゼンをしてくる。
それがうっとおしいだけに見える。
あなたが描く純文学という感情は何か。
サウダージのように、
造語でよいから、ひとつ名前を与えてみよう。
その感情を味わう価値はあるのか。
ポジティブである必要はない。
「着ては貰えぬセーターを寒さこらえて編んでます」
の感情を味わうことは、
大人のたしなみである。
コーヒーを飲む権利が大人にはあるように、
世の中にある、
ありとあらゆるネガティブからポジティブの、
全ての感情を味わう権利が大人にはある。
流行りの(もう流行りでもないか)NTRという性癖すら、大人には快感である。
あなたの作品の純文学的感情は何か。
それはテーマとどのような関係か。
不可分だろう。何故ならそれは中心にいるものだからだ。
その感情へ、全員を迷わずに連れていけるか。
その感情へ、全員を連れていくことに責任が取れるか。
その感情へ、皆を満たすことに、意味があるか。
その支持者が多いものが、
世の中で名作と言われる。
あなたは、
新しい、しかも名作を、
創らなくてはならない。
2015年11月23日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック