2015年11月24日

詩ということ

前記事のつづき。

詩とは何か。純文学は詩にたとえられる。
じゃあ詩ってなんだろう。
訳の分からないもの?


僕は、
「そこにしか書いてない、オリジナルな感情」
のことだと考えている。


たとえば俳句(定型韻文詩のひとつ)を考えよう。
俳句で書くべきことはなんだろう。
季語が必要だ。
だから、伝統的には、
季節の何かにひっかけて表現するのが俳句だ。
何を?
あるひとつの感情を。

ある季節の何かについて思う感情を書いたり、
ある感情を描くのに、季節の何かをダシにして書くのが、
俳句の定義ではないかと僕は考えている。


夏草やつはものどもが夢のあと

は、夏草がぼうぼうと繁り古戦場(関ヶ原?)
を覆う様を見て、栄枯盛衰や、達成しなかった夢についての、
あはれを詠んだものだ。

夏草がぼうぼうと繁るさまを見て、そのように思ったか、
あはれを詠みたくて、関ヶ原の夏草をダシに詠んだかは、
定かではない。
一見前者(たまたま関ヶ原に出くわして、はっと思い、創作した)に見える。
紀行文的な扱いだからだ。
しかし実際の所は、
もののあはれについて松尾芭蕉は常に考えていて、
せや、関ヶ原の夏草をモチーフにしたろ、
とテーマ先行だったかも知れない。
それはどっちかは、本人に聞いてみないと分からない。

俳句とは、575の形式で、何かの独自の感情を詠んだものだ。
それが詩的と呼ばれるメジャーな感情
(例:もののあはれ、振られて辛い、会えなくて震える)を、
新たなバリエーションで詠んでもいいし、
あるいは、全く新しいオリジナルな感情を詠んでもいい。

僕の大好きな伊藤園新俳句(季語は必要ではない)の作品の、

転校を打ち明けられた二人乗り

は、この詩でしか表現できない、独自の感情だ。
転校を打ち明けられた驚きや哀しみと、
二人乗りという親密極まりない日常性の対比が、
そして転校という理不尽が起こることを受け止めきれない、
小学生から中学生の頃の未完成な心の感じが、
我々の心を締め付ける。

この感情を想像し、情景を想像し、
二人の関係や過去や未来を想像し(たとえばその後二人は連絡したか?)、
人間とは何だろう、運命って何だろう、
などを考えることが、この作品を味わうということだ。
そしてこれは名作だ。
多くの人がこの感情に至ることが可能で、
しかも味わう価値のある感情(せつなさ)だからである。

もういっちょ。季語なしというジャンルを有名にした、
俵万智のサラダ記念日。(短歌ですが)

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

ざっくり言うと「あいしてる」という感情のジャンルを、
このように書いたのは、彼女がはじめてて、
その軽快さやサラダというオシャレさや、
サラダ記念日というサブカルに繋がる可愛さは、
独自の感情だと思う。

少女漫画は詩的である。
万葉集の太古から、
女が愛についての素晴らしさやせつなさや裏切りについて書くのは、
詩である。
そのバリエーションの中での、
独自の感情の描きあい(別に競争してるわけではないが)が、
これらのジャンルを形成している。
愛についての興味や執着は、
男より女のほうが強く、豊かだと思う。
(男はなんだろね。科学とか原理みたいなものかね)
そこに詩が生まれるのは当然か。

詩とは、我々が生きているうえで抱く、
無限の感情のうちのひとつ、
何かに似てるかも知れないけど、
何にも似ていない、
オリジナルで、しかも誰もが深く共鳴できる、
ひとつの感情を、
描くことであると僕は思う。


韻文詩(一般に、歌。日本語では、俳句、短歌、ポップスの歌詞、
ラップのライム)は定型に嵌めるが、
散文詩は形式がない。
いわゆる詩だけでなく、ツイートや、キャッチコピーも、
時に詩になると僕は思う。


さて純文学。
純文学は、長い長い文で書いた、ひとつの詩である。
ひとつの感情を表現する、物語形式で書いた詩だ。

純文学に僕は詳しくないので、
映画の例。

パトリスルコント「髪結いの亭主」
レオスカラックス「ポンヌフの恋人」「汚れた血」
ジュゼッペトルナトーレ「ニューシネマパラダイス」
岩井俊二「打ち上げ花火」

あたりは、僕は純文学的であり、詩であると思う。
すなわち、物語形式で書かれた、
独自の感情を描くもので、
それが多くの人が共鳴できるもの、である。

よく見たら恋に関する例ばかりだった。
俺ロマンチストだからしょうがないか。




エンタメだけだと、どうしてもオリジナリティに限界があると思う。
詩だ。詩が、そこにオリジナリティの衣を被せるのだ。

詩が難解なのは、
難解な詩を書いて俺スゲーというバカがいるからだ。
それは中二装備のメアリースーとたいして変わらない。
平易で皆をつれてゆく詩が、理想だと思う。
俵万智の凄いのは、平易な言葉しか使わない所である。


さて。
あなたの物語には詩があるのか?
難しいことを考えなくてもいい。
ヒロインと恋すればいい。
恋をしなくても、甘酸っぱい気持ちでも持てばいい。
それだけで詩の成分が入るというものだ。

アホプロデューサーが言う、恋愛要素を入れろ、
というバカなアドバイスは、
この作品には詩的感情が足らない、
ということを言っている可能性が、あるかもね。
単にパーツとして入れりゃいいってもんじゃないよ。
それが全体の詩的感情になってるかだからね。

相変わらずドラマ風魔を例に出すけど、
姫子とのあれがあるから、
小次郎は風を纏えるのだと思うよ。
つまり、独自の感情を我々にずっと残すのだと思う。
(この詩的感情は、原作にはない。
原作にある詩的感情は、人が死んで行く、乾いたあはれかも知れない。
5話のラストで感じたように、
ドラマだと湿っぽく、辛くなりすぎる。
夜叉編で終わる13話限定だったし。
だから前向きの詩的感情にすることに僕はしたのだ)



原作つきの映画化が何故失敗するのか?
そもそもエンタメストーリーとして詰まらない、
脚本的欠陥が殆どだと僕は考えていた。
が、そもそも原作の詩的感情を理解し、
それを再現すること(あるいは実写で描くならこのような詩的感情が正しいとアレンジすること)
が出来てないから詰まらないのではないか?
原作の精神を分かってないという批判は、
主にその辺ではないだろうか。
(少女漫画の実写化は、イケメン起用で、 少女たちの恋心を奪っているので、
その時点で概ね詩的なのだ。
それに騙されない層は批判するだろう。
つまり、少女漫画の実写化は、所詮色恋営業である)

無限の住人の詩的感情(もののあはれ)を、実写化は忘れるだろうか。
三月のライオンの詩的感情(将棋への思い)の実写化はどうか。
成功する気がしない。

実写化の主な間違いは、ガワを合わせれば、
表面上は実写化したでしょ、と言い訳が立つことである。
それにノーと言うためには、
キャストのイメージが違うとか、
エピソードが削られたとかの、
ガワで批判してはいけない。ガワの論法に巻き込まれる。
原作の○○という全体的な詩的感情が、再現できていない、
と批判すべきではないかな。
posted by おおおかとしひこ at 11:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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