2015年11月26日

駄目な宣伝部は、滅びよ

僕は長年広告業界にいるので、
商品の売れ行きと広告の関係についてよく知っている。
商品がよくて広告もいいのが大ヒットして、
商品か広告がどちらかがいいのはヒットする。
商品も広告もよくないのはヒットしない。

つまり、広告によって、よくない商品の時でもヒットが可能だ。
また、そこそこいい商品なのに、広告が駄目なせいで、
そのパイ以上に伝わらず、役目を終えたら消えていくものもある。

どちらも経験している。

また、先日も「十月十日の進化論」の電車広告があまりに酷いので、
抗議批判した。


自分の例で言えば、
ドラマ「風魔の小次郎」、映画「いけちゃんとぼく」の広告には、
不満である。
商品の情報を正しく整理できていないし、
それを無視した広告独自の判断も、魅力的ではないからだ。


とくにいけちゃんとぼくの予告、
宣伝ポスターは酷い。
ラストのどんでん返しが売りなのに、
そのネタバレを概ねしているからである。
僕の徹底的な抗議も、一切無視された経緯も納得していない。

風魔のときはある程度反映されたが、
宣伝投入費の少なさを知っていたので黙らざるを得なかった。
CMも自分でやりたかったが、
本編つくるのでスケジュール的にはいっぱいだったし。

次やるときは、広告開発から入るべきだと確信している。
それほど僕は宣伝部を信用しなくなっている。



映画の広告の原則は、
作品の本質を示し、なおかつ上手いこと隠す、
絶妙なパンチラであるべきだ。
それが出来ないなら、
それを凌駕する、別の「面白そう」を創作すべきである。
それが商品と広告の理想の関係だ。

(たとえば「マッハ!!!!」という快作の宣伝は、
ノーワイヤーノーCGという、肉体生おしという一点突破だった。
中身と全然違ったが、それがとても魅力的だった)


さて、またもや宣伝部シネと思わせる、
ものすごい例を見つけたので議論しよう。


センスしか感じない素晴らしい海外版ポスターが日本のポスター職人の手にかかると「TSUTAYAのB級映画祭りとかでイチオシされてそうな映画のポスター」になってしまう辺りやはり日本の映画界は纏めて一度滅んだ方がいいんじゃないかと思う。
http://togetter.com/li/904008


英語版と日本語版の比較をしよう。

英語版:

深海で起こる不気味で恐ろしい出来事。
ダイバーが遭遇したのは…巨大な目?…いや、巨大な白鯨!
一体なんだ?

ということを読み取らせるビジュアル。
白鯨かどうかは分からないが、
上の文字「モビィディック(邦題:白鯨)」から、
かの有名な文学をモトネタにしたものなのは明らか。

上の煽り文「驚くべき実話があった。
まるで有名な『白鯨』のような…」というワクワク感と、
タイトル「海の中心(または核心か心臓か心か。中身を見ないと正確な訳は無理だが)」
という内容から、

ダイバーが出会った、巨大な白鯨の話であることは容易に想像できる。
そらがこの近海の主であることも想像でき、
ダイオウイカ的な興味がひかれまくるではないか。

ポスタービジュアル的にも、
美しい構図で、見たことのないビジュアルで、
オリジナリティー高そうな名画を想像させる。

この「想像」こそが、
予告編の役目だ。

さあ一体どんな話なのだろう、とパンチラからパンツを想像する、
最高のご馳走ではないか。
万が一、予告詐欺だったとしても、
このポスターから想像される想像は一級品であり、
広告としての作品性は満点である。


これが日本版だと、あまりにも酷い。

誰が出て、どういう感じで(有名本の、隠された、衝撃の)、
という情報の「確認」がメインになっている。

ここがTSUTAYAのB級っぽいところだ。
チラシなのだ。
3割引98円お一人様3つまで、5時までのタイムサービス、
と同じ。
スペックの羅列なのである。


さあ。

英語版は「想像」をつくる。
日本語版は「確認作業」。

どちらが、映画的か?

商品が、
作業に必要な道具(たとえばパソコン)のスペックカタログならば、
後者で構わない。
(いや、マックはそれを「想像」で広告することで、
ここまでシェアを伸ばしている)

映画は、想像か?確認か?



確認だとしたら、映画は滅びる。
そうだと考えている宣伝部は、滅びればいい。



実体験から、ひとつだけ現場の情報を。
宣伝ポスターは、実は「客」に見せるのではなく、
配給会社が「劇場に納品する」ものなのである。
つまり、「劇場の人が作品内容を確認するためにある」らしい。
誰の有名人が出る、大体どんな話かと。
それを並べてスクリーンの配置や想定観客を設計するそうな。
想像だが、映画本編全てを見ていない。
本質的な所を見ず、カタログスペックだけで割り振っている。
こういう年齢層が見るこういうジャンルだと。

工業製品の分類と同じである。
ベルトコンベア式な作業段取りだ。

映画ってそういうもんだっけ。
テンプレをつくることだっけ。
違うよな?


このシステムのせいで、
ポスターが想像ではなく確認になっているのだとしたら、
このシステムが間違っている。
システムごと滅びればいい。


最近のCMの制作スタイルが、
想像ではなく確認がとても増えている。

我々は、確認が仕事か?
想像が仕事じゃないのか?


確認しかしない広告は、滅びればいい。
確認しかしない映画は、滅びればいい。


想像だけが、映画を支える、工業的なシステムでとらえられない、
素敵なところなのだ。
その素敵な所に、我々観客は期待してお金を払う。

ちょっとはディズニーみならえや。

ちなみに、ディズニーの提供する「素敵」は一色しかない。
映画とは、もっと無限種類の素敵があるものである。
posted by おおおかとしひこ at 11:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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