2015年11月27日

ハッピーエンドでない物語

僕は初心者には、
ハッピーエンドでない物語を書くことはオススメしていない。
死ぬ俺カッケーみたいな、中二病になりがちだからだ。
(結局メアリースーに取り憑かれるのなら、
ハッピーエンドだろうがそうでなかろうが同じかもだが)


ハッピーエンドの物語のほうが、
構造を分かりやすくつくれる。
物語とテーマ(結論)の関係も明快だ。
(明快につくらなくては、意味がない)

だから、ハッピーエンド形式をまともに書けるようになってから、
はじめてハッピーエンドでない物語も、
書いてみるといい。

そこにテーマを埋め込む難しさを、再認識するはずだ。


先日、ハッピーエンドでない物語を舞台で見た。
まだその世界から帰ってこれていない。

あの主人公は何を失い、何を得たのか、
そしてそれは何故で、どう思っていたのか。
ずっと考えている。勿論答えなどないのだが。

たとえば原作「風魔の小次郎」は、
ハッピーエンドでない物語だ。(打ちきりという結果も含めて)
あの漫画が、
四半世紀以上我々リアタイ読者に何を残しているのだろう。



世界は残酷だ。
ハッピーエンドでない物語は、
基本的にこれがスタンスだと思う。

残酷だ、死ね、ではなく、
残酷だ、しかし美しいかも知れない、暖かいかも知れない、
何か意味があるかも知れない、
などのように、残酷だ、しかし、のあとに来るものが、
その作品のテーマではないかと考えている。

先日の舞台の物語は、
世界は残酷だ、しかし、祝福されている、
というようなことを最終的に書こうとしたように、
僕には思える。

まあ、能面のようなもので、
こちらが勝手に無表情に投影しているのかも知れない。


ハッピーエンドでない物語は、
そのような、能面であることが理想かも知れない。
その方が観客に傷を残し、
その意味を観客がずっと考えるかも知れない。


そういえば僕がはじめてハッピーエンドでない物語に触れたのは、
幼稚園の頃の大ヒット「泳げたいやきくん」のラストだった。
三番で、たいやきくんは人間に食べられてしまう。
それが何を意味するのか、僕にはいまだに分からない。

それは、生きる意味があるのか分からない、
という我々の人生と同じ、
不安を語るように思う。



ハッピーエンドでない物語は、
僕は中級者向けではないかと考えている。

真の上級者はそれを踏まえた上で、
やはり、テーマを明快につくるハッピーエンドを選ぶと思うからだ。


あなたは、世の中を、世界と自分の関係を、
社会を、どのように考えているだろう。
中級者になったら、
ハッピーエンドでない物語を考えてみるのも、
大人のたしなみというものだ。
(自分に酔う危険を認識しておくこと!)

ハッピーエンド形式で使う道具とは、
全く別の道具の使い方をするはずだ。
posted by おおおかとしひこ at 10:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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