僕は初心者には、
ハッピーエンドでない物語を書くことはオススメしていない。
死ぬ俺カッケーみたいな、中二病になりがちだからだ。
(結局メアリースーに取り憑かれるのなら、
ハッピーエンドだろうがそうでなかろうが同じかもだが)
ハッピーエンドの物語のほうが、
構造を分かりやすくつくれる。
物語とテーマ(結論)の関係も明快だ。
(明快につくらなくては、意味がない)
だから、ハッピーエンド形式をまともに書けるようになってから、
はじめてハッピーエンドでない物語も、
書いてみるといい。
そこにテーマを埋め込む難しさを、再認識するはずだ。
先日、ハッピーエンドでない物語を舞台で見た。
まだその世界から帰ってこれていない。
あの主人公は何を失い、何を得たのか、
そしてそれは何故で、どう思っていたのか。
ずっと考えている。勿論答えなどないのだが。
たとえば原作「風魔の小次郎」は、
ハッピーエンドでない物語だ。(打ちきりという結果も含めて)
あの漫画が、
四半世紀以上我々リアタイ読者に何を残しているのだろう。
世界は残酷だ。
ハッピーエンドでない物語は、
基本的にこれがスタンスだと思う。
残酷だ、死ね、ではなく、
残酷だ、しかし美しいかも知れない、暖かいかも知れない、
何か意味があるかも知れない、
などのように、残酷だ、しかし、のあとに来るものが、
その作品のテーマではないかと考えている。
先日の舞台の物語は、
世界は残酷だ、しかし、祝福されている、
というようなことを最終的に書こうとしたように、
僕には思える。
まあ、能面のようなもので、
こちらが勝手に無表情に投影しているのかも知れない。
ハッピーエンドでない物語は、
そのような、能面であることが理想かも知れない。
その方が観客に傷を残し、
その意味を観客がずっと考えるかも知れない。
そういえば僕がはじめてハッピーエンドでない物語に触れたのは、
幼稚園の頃の大ヒット「泳げたいやきくん」のラストだった。
三番で、たいやきくんは人間に食べられてしまう。
それが何を意味するのか、僕にはいまだに分からない。
それは、生きる意味があるのか分からない、
という我々の人生と同じ、
不安を語るように思う。
ハッピーエンドでない物語は、
僕は中級者向けではないかと考えている。
真の上級者はそれを踏まえた上で、
やはり、テーマを明快につくるハッピーエンドを選ぶと思うからだ。
あなたは、世の中を、世界と自分の関係を、
社会を、どのように考えているだろう。
中級者になったら、
ハッピーエンドでない物語を考えてみるのも、
大人のたしなみというものだ。
(自分に酔う危険を認識しておくこと!)
ハッピーエンド形式で使う道具とは、
全く別の道具の使い方をするはずだ。
2015年11月27日
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