物語を書き終えてしばらく経って、
俯瞰してみると、
自分の無意識がその中に反映されていることに気づくと思う。
全て自分の意識で書いていた、
全て自分がコントロールしていた、
という執筆中の真逆とは違ってだ。
スポーツでもそういうことがある。
あのホームランはどうやって打ったんですか、
という質問に対して、
なんとなく気づいたら、みたいな、
無意識でやった、かのような答えがよく帰ってくる。
人間は、体でやったことについては、
言語で意識化することができない。
仮にそうするとしよう。
我々は脳だけで何かを感じ、判断し、記憶し、評価し、
生きているかのような錯覚があるが、
体で何かを感じ、判断し、記憶し、評価する、
(脳を経由せず)ということはある。
咄嗟の肉体的なスポーツなら分かるかもだが、
それは、
執筆という、一見純粋な脳活動においてもなのだ。
我々は、次に何を考えるか、分かっていない。
次に何を感じ、次に何を判断し、記憶し、評価するか、
次に何を思いつくか、分かっていない。
もし分かるとしたら、
論理的で予測可能な、方程式で答えが出るものだけだ。
(ラプラスの悪魔は、後者を皮肉ったものだ)
そして、物語というものは、論文ではないから、
つまりは殆どが、分からないものに突き動かされているのである。
それを創作的な衝動といったりする。
名前があるにせよないにせよ、
執筆中の私たちは動物のようなもので、
自己を制御しきっていない。
つまり、無意識で書いている。
憑依という感覚も、それを表現しようとしていると思う。
さて。
ようやく本題。
つまり、執筆は、極端に言うと無意識で書く。
だから作者の無意識の本音が出る。
無意識の偏見が出る。
無意識の願望や妄想が出る。
無意識の残酷さや幼稚さも出る。
それが全て素晴らしい夢想ではない。
劣っていたり、ダメだったり、恥ずかしいものになっている可能性がある。
それらを、意識で反省することになるのが、
リライトという過程だ。
意識で反省し、
何かを言い換えたり、
何かを構造ごと変えたり、
何かを削ったり足したりする。
しかし実際には、書くことは無意識だから、
「次の無意識」に、その計画を渡すだけなのだが。
まず、意識でプロットを書く。
プロットとは計画だ。
完成形の全体像から、骨格から、パーツから、
細かく計画されている。
次は無意識で最後まで書く。
意識でそれを評価し、プロットを越えている所は誉め、
プロット未達はそこを再度埋めるように再計画し、
無意識の宜しくないところを修正し、
無意識のよいところは伸ばすようにし、
次の段階に、執筆の無意識をすすめる。(リライト)
あとはこの繰り返しだ。
自分の中の、意識と無意識が、お互い納得したときが、
完成である。
リライトには二段階ある。
自分の中のリライトと、
他人に指示されて直すリライトだ。
まず、自分の中のリライトが上手く出来ないと、
他人に指示されるリライトは上手く行かない。
自分の中で、無意識で書いたのか、意識でコントロールしたのか、
分からないと、他人の意見が咀嚼できないからだ。
他人の意見や指示は、所詮意識化された言語によるもので、
我々の中の無意識に影響を与えられない。
ホームランが打てない人に、
膝を締めろだのコンパクトに持てだの握力を締めろだのと、
部分的でガワを規定する指示ばかりするようなものだ。
それは言葉によるものだからだ。
言葉だけでは、
我々の無意識に影響を与えられない。
(長嶋茂雄は天才なので、ガーンとかシュッとか表現してたね)
だから、下手くそなリライトは、
意識だけで文章を直し、魂がどんどん減った、詰まらないだけの話に成り下がる。
上手なリライトは、
無意識と意識の往復が、上手くいくものである。
意識からの指示と、無意識からの返球が、
うまく噛み合うものだ。
(意識の指示通りの原稿にすると、絶対に良くならない。
悪いところが直るだけで、良くならない。
いいところが削られて、悪いところがましになった、
パワーの小さなものになっていく。
もっといい解は、無意識しか見つけられない)
意識と無意識の往復、ととりあえず言ってみた。
この感覚を分かるには、
大分かかるかも知れない。
あなたは次に何を思うか?
それが無意識である。
思う前に、あなたの中に大きな湖があって、
色んな流れが生じたり消えたりしているイメージだ。
そこから何かあって、あなたは次に何かを思う。
無意識とはそういう体系のような感じ。
それを論理的分析的言語で把握するのが、意識。
両方があなたで、あなたは両方で、
思ったり、考えたりする。
非言語領域と言語領域というのともちょっと違う。
無意識は体や体験に基づいている気がする。
(僕がタイピングによる執筆を勧めず、
手書き執筆後、タイピング清書を勧めるのは、
そういう身体性に関係していると直感するからだ)
なにやら言葉で捉えきれない。
霊感とか憑依とかの、原始的宗教と同じことだが、
オカルトになってはならない。
まあ、沢山書いてるうちに分かってくる感覚か。
あなたは無意識で書いている。
それを意識で分析し、次の指示を自分に出す。
その繰り返しだ。
意識の分析力が、おそらくは脚本論とか物語論とか呼ばれる領域なのだ。
2015年11月29日
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