2015年11月29日

無意識と意識の往復

物語を書き終えてしばらく経って、
俯瞰してみると、
自分の無意識がその中に反映されていることに気づくと思う。

全て自分の意識で書いていた、
全て自分がコントロールしていた、
という執筆中の真逆とは違ってだ。


スポーツでもそういうことがある。
あのホームランはどうやって打ったんですか、
という質問に対して、
なんとなく気づいたら、みたいな、
無意識でやった、かのような答えがよく帰ってくる。

人間は、体でやったことについては、
言語で意識化することができない。
仮にそうするとしよう。

我々は脳だけで何かを感じ、判断し、記憶し、評価し、
生きているかのような錯覚があるが、
体で何かを感じ、判断し、記憶し、評価する、
(脳を経由せず)ということはある。
咄嗟の肉体的なスポーツなら分かるかもだが、
それは、
執筆という、一見純粋な脳活動においてもなのだ。

我々は、次に何を考えるか、分かっていない。
次に何を感じ、次に何を判断し、記憶し、評価するか、
次に何を思いつくか、分かっていない。
もし分かるとしたら、
論理的で予測可能な、方程式で答えが出るものだけだ。
(ラプラスの悪魔は、後者を皮肉ったものだ)

そして、物語というものは、論文ではないから、
つまりは殆どが、分からないものに突き動かされているのである。

それを創作的な衝動といったりする。

名前があるにせよないにせよ、
執筆中の私たちは動物のようなもので、
自己を制御しきっていない。
つまり、無意識で書いている。

憑依という感覚も、それを表現しようとしていると思う。



さて。

ようやく本題。

つまり、執筆は、極端に言うと無意識で書く。
だから作者の無意識の本音が出る。
無意識の偏見が出る。
無意識の願望や妄想が出る。
無意識の残酷さや幼稚さも出る。

それが全て素晴らしい夢想ではない。
劣っていたり、ダメだったり、恥ずかしいものになっている可能性がある。

それらを、意識で反省することになるのが、
リライトという過程だ。

意識で反省し、
何かを言い換えたり、
何かを構造ごと変えたり、
何かを削ったり足したりする。

しかし実際には、書くことは無意識だから、
「次の無意識」に、その計画を渡すだけなのだが。


まず、意識でプロットを書く。
プロットとは計画だ。
完成形の全体像から、骨格から、パーツから、
細かく計画されている。

次は無意識で最後まで書く。

意識でそれを評価し、プロットを越えている所は誉め、
プロット未達はそこを再度埋めるように再計画し、
無意識の宜しくないところを修正し、
無意識のよいところは伸ばすようにし、
次の段階に、執筆の無意識をすすめる。(リライト)


あとはこの繰り返しだ。

自分の中の、意識と無意識が、お互い納得したときが、
完成である。



リライトには二段階ある。
自分の中のリライトと、
他人に指示されて直すリライトだ。

まず、自分の中のリライトが上手く出来ないと、
他人に指示されるリライトは上手く行かない。

自分の中で、無意識で書いたのか、意識でコントロールしたのか、
分からないと、他人の意見が咀嚼できないからだ。

他人の意見や指示は、所詮意識化された言語によるもので、
我々の中の無意識に影響を与えられない。

ホームランが打てない人に、
膝を締めろだのコンパクトに持てだの握力を締めろだのと、
部分的でガワを規定する指示ばかりするようなものだ。

それは言葉によるものだからだ。
言葉だけでは、
我々の無意識に影響を与えられない。
(長嶋茂雄は天才なので、ガーンとかシュッとか表現してたね)

だから、下手くそなリライトは、
意識だけで文章を直し、魂がどんどん減った、詰まらないだけの話に成り下がる。


上手なリライトは、
無意識と意識の往復が、上手くいくものである。
意識からの指示と、無意識からの返球が、
うまく噛み合うものだ。
(意識の指示通りの原稿にすると、絶対に良くならない。
悪いところが直るだけで、良くならない。
いいところが削られて、悪いところがましになった、
パワーの小さなものになっていく。
もっといい解は、無意識しか見つけられない)



意識と無意識の往復、ととりあえず言ってみた。
この感覚を分かるには、
大分かかるかも知れない。

あなたは次に何を思うか?
それが無意識である。

思う前に、あなたの中に大きな湖があって、
色んな流れが生じたり消えたりしているイメージだ。
そこから何かあって、あなたは次に何かを思う。
無意識とはそういう体系のような感じ。

それを論理的分析的言語で把握するのが、意識。

両方があなたで、あなたは両方で、
思ったり、考えたりする。


非言語領域と言語領域というのともちょっと違う。
無意識は体や体験に基づいている気がする。
(僕がタイピングによる執筆を勧めず、
手書き執筆後、タイピング清書を勧めるのは、
そういう身体性に関係していると直感するからだ)

なにやら言葉で捉えきれない。
霊感とか憑依とかの、原始的宗教と同じことだが、
オカルトになってはならない。


まあ、沢山書いてるうちに分かってくる感覚か。

あなたは無意識で書いている。
それを意識で分析し、次の指示を自分に出す。
その繰り返しだ。
意識の分析力が、おそらくは脚本論とか物語論とか呼ばれる領域なのだ。
posted by おおおかとしひこ at 12:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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