たびたび書いてるシリーズ。
どうして僕はアナログ写真やフィルムが好きなのだろう。
全部写っていないからだと思う。
最近のデジタルは全部写る。
それが良くない気がする。
最近の制作部は、恐らくフィルム撮影を怖がる。
写ってなかったら困る、という意識があるようだ。
あのあれは写ってなかったのか、
と聞かれて、写ってませんでした、
と答えるのが怖いからだ。
某CMで4K撮影をしたという。
凄いズームでもするのかと聞いたら、
引き絵をあとでアップに寄りたいと言われたときに対応出来ないからだ、
と、恐ろしい後ろ向きの答えが返ってきて、
そいつを殴りそうになったことがある。
大人なので、可愛そうな目で見ただけだが。
撮影というのは、
たったひとつを撮ることである。
逆に言うと、他のすべてを捨てることだ。
この、今、目の前で起こっていること、
そのひとつ以外全て捨てることが、
撮影である。
引きで撮りたいときに、寄りなんて撮ってない。
寄りを捨てることが、引きで撮ることだ。
デジタルはそういう保険を可能にしてしまった。
ラテチュード、画素。
(ついでにあとでフォーカスを合わせ直すカメラも実用化されるようだ。
Z方向、フォーカス方向に連写するカメラというべきか)
全部写しておいて、あとで決めるという考え方。
それは、今、目の前で起こっていることの、
何を選び、その他を捨てるという、やり方ではない。
僕らの人生はアナログだ。
僕らは必ず死ぬ。
僕らは同じ時をやり直せない。
アナログで表現することは、そのことと近い。
デジタル撮影は、今、この時を保存しておいて、
あとで加工する考え方だ。
あなたの人生は、今、目の前で起こってなくて、
あとでSNSでフォローして、加工して残すのか?
そういう人生の人だけ、
デジタル撮影をすればいい。
僕は、死ぬし、この時をやり直せないので、
今、ここで、一番いいと自分で感じるものを撮り、
他を全部捨てる。
それが表現だと思う。
あるいは、プロフェッショナルとして、
そんな一瞬が来るような準備をする。
人生のスタンスの問題かも知れない。
死ぬのは怖い。
あとでいじれる人生、アンドゥできてレタッチできて、
いくらでもコントロールが効く人生は、
安全で保険が効く。
僕は、それは人生ではないと考える。
デジタルは人を幸せにしたか?
人生を甘く見せ、人生を甘く生きて、
レタッチとアンドゥに無限の時間をかける、
デジタル中毒を増やしただけではないか。
俺たちは高々70年とか80年しか生きない。
今目の前のことに向かい合わなくて、あとで向き合うのか?
アナログとは、
たったひとつを撮ること。
その一つに表現全てを賭けること。
他を全部捨てること。
それは人生と同じだ。
俺たちは、無限の可能性の中から、
たったひとつの人生しか生きられない。
キープが沢山欲しいんだってさ。
OKはひとつだけだぜ?
2015年12月02日
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