2015年12月06日

説明と物語の違い

説明文と物語の違いはなんだろう。
どちらもあることを説明している、とも言えるし、
物語で良くない部分は説明台詞や説明場面だと言われる。

僕は、感情移入の有無ではないかと考える。


物語を楽しめるか否かは、
感情移入の激しさではないかと思う。

感情移入に至らない、あるいは微妙な物語より、
激しい感情移入の物語のほうが出来がよいと、
一般に考えられる。

注意すべきことは、
感情移入は主観に左右されがちだということだ。
たとえば好きな俳優が出ていれば、
どんな糞作品でも見れてしまうのは、
その俳優の役に(好きだから故に)感情移入してしまうからである。
好きでなければ糞だという判断が曇るのである。
そしてその感情移入は、世間では少数派だということに、
その人たちは気づかなくて、
だから信者扱いされたりする。

あるいは、自分と似た境遇に感情移入しやすいのが人情だ。
若者が見る作品は若いやつが主役で、オッサンが適役だ。
オッサンが主役で若者が適役になる作品は、
上手くない人が書かないと難しい。
下手な人なら若者主役で無難だろう。
こうして、下手な人が若者が主役のものを書かされる。
そうして、若者主役の質は下がって行く。
子供番組を「ジャリ番」という習慣は、
まだ残ってるだろうか。
全ての番組のなかで最も格下扱いされる。
それは、スタッフも予算も格下が回される部署扱いだ。


僕は、
たとえ嫌いであっても、どんな境遇や世代の人だとしても、
全ての人々が感情移入するものを、
書くべきだと思っている。
それを書くことが、感情移入であると。
(実際、ドラマ風魔ではそれを成功させた)

さて本題。

説明文の何が退屈なのか。
理屈での説明が何故退屈なのか。

そこに、感情移入がないからだ。


逆に、上手な説明とは、
感情移入が機能する説明である。

たとえば法廷の判決文は、
これまでの事件の経緯に感情移入が行われていれば、
映画のクライマックスに値する感情移入で聞くことが出来る。

あるいは、
物理学の方程式や理論展開は、
宇宙の謎とそれを解明しようとする人達の思いに感情移入すれば、
冒険映画に匹敵するワクワク展開である。

似たようなことをやったのが「プロジェクトX」だ。
理系の人々の業績の説明を、
まるで映画的なドラマになるように、
感情移入させたのである。
(僕が一番好きな回は東京ドームで、
テント地の入手の苦労や、そんなこと出来るわけないという反発を食ったあと、
隣のビルの屋上に同じテント地を張って、
未だに耐久試験をし続けている、というラストシーンで号泣した。
その主役がいなくなっても、試験をやりつづけ、
テント地の優秀さを証明し続けている、
という、説明文以上の技術者の物語がそこにあるからだ)


もしあなたが、説明文が下手なのだとしたら、
感情移入を加えてはどうだろう。
もっとも、感情移入とは何かはとても難しい。
説明文を受ける主体が、
説明文の中の主人公に、
まるで自分であるかのような感情を抱くことだ。

数学が難しいのは、
点PやXという抽象的なものに、感情移入しづらいことが原因だ。
逆に数学とは、感情移入を排除した所に成立する学問なのだ、
という根本を誰も説明しないから、
感情移入をするのが無意識な人たちは、数学嫌いになるのだが。
逆に数学に親しみを持たせるには、
点Pを擬人化し、物語化すればよい。
しかし数学の凄みを知るのは、
点Pが別のストーリーにも機能し、
その性質を備えている限り、全ての場面で機能するという、
無限の生まれ変わりを理解させる必要がある。
具象を越える抽象の瞬間を見せてあげないとね。



さて。
優秀な物語は、優秀な感情移入をもつ。

説明台詞や説明場面が、何故禁忌とされるか。
感情移入が飛ぶからである。

上手な説明は、感情移入が伴う。
保険の契約なんて、条項の検討ではなくて、この人が勧めるから、
という理由のほうが大きいぜ。
(詐欺の基本)


あなたがすべきことは、
途切れず、ハラハラする、深い感情移入をつくることである。
posted by おおおかとしひこ at 12:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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