何かをネタ探ししているとき、
過去のああいう体験のことを元にすれば、
書けるかもしれない、と思うことはよくある。
それは注意して取り扱わなければならない。
何故なら、一人称だからである。
こういうときにこう思った、感じた、
というのは、学校教育の作文でよく書かされる。
よく考えるべきだ。
それはあなたの主観によるものであると。
逆に、学校教育の作文では、主観による一人称を書かされている。
これが高等教育になると、
主観による判断をなるべく引き算し、
客観的な目線で事実関係を書き、評価する
(感じたとか思ったとかではなく、客観的な評価を下すこと)
が求められる。
説明文、論説文、小論文、論文だ。
元々日本の教育は、
論文を書いたり読んだりすることをゴールに置いている。
物語を書いたり評価したりすることは、
脇に置いているといっていい。
(創作物語の授業はないし、読解はあるけど、
論理的な整合性の読解しか問わない)
で、
いざ自分が物語を書く段になると、
ペンで字を書いた体験の記憶から、
小論文か体験文しか出てこなくなりがちなのだ。
物語とは感情を描くものだから、
小論文スタイルではない。
(ト書きなどは客観的小論文スタイルか)
ということで、
無意識に、こういうことがあってこう思った、
という「一人称による体験」にたよりがちなのである。
一人称小説や、エッセイならば、
それを元にして豊かな世界を構築できるだろう。
しかし我々が挑む、映像の脚本というものは、
三人称なのである。
一と三という名前がちょっと違うだけだから良くないのだな。
野球とソフトボールぐらいの違いしか想像出来ないもの。
野球とサッカーぐらい、僕は違うルールだと思うよ。
一人称と三人称の違いについては、
過去沢山論じてきたので、検索すると出てくると思う。
さて、三人称の物語というのは、
他人と他人が何かをしている様を描く。
他人が何かをしていることは観察出来るが、
他人が内部で特別に何かを考えていることは、外からの観察だけでは不可能だ。
たとえば、かわいい子が笑顔で微笑んでいることは観察出来るが、
彼女が「早く帰りたい」と思っているか否かは、
その表情からは分からない。
人は、内面と外面を一致させないことが可能だ。
彼女がそう思っているかどうかは、
そわそわしてるとか、髪をくるくるしてるとか、
ケータイを見始めたとかの、
何を「するか」からしか読み取れない。
一方、主観的体験というものは、
ある体験が大したことなかったとしても、
あなたの内部で起こった驚きや喜びや、
えもいわれぬ感情が大変豊かなものである。
しかし、外からはあなたのかわいい笑顔のなかで、
どんな思いが渦巻いているかは、見えないのである。
あなたは、あなたの思いを人に分かるように語るか、
何かをすることでしか、
あなたの思いを読み取ってくれないのだ。
一人称小説やエッセイは、語る(台詞)ではなく、
地の文でその思いを綴る形式だ。
三人称に地の文はない。
語る(台詞)か、観客から見える動作の指示(ト書き)の、
ふたつしかないのである。
あなたの特別な感想や主観は、
三人称では見ることが出来ない。
説明したり語ることは出来る。ダブのCMのようにだ。
※個人の感想です。
と注意書きされる。
この注意書きは、主観による一人称だと言っているのだ。
話がややこしくなってきた。
あなたの一人称的な特別な思いをベースにすると、
三人称表現に直接変換は出来ない。
だから不可能だ。
不可能だと知り、
別の方法で、その思いを三人称の芝居に変換することは、
可能かも知れない。
あなたの特別な思いは、創作の原動力のひとつだ。
しかしそれを三人称芝居でやることは出来ない。
(ちなみに、やると、キリヤの糞キャシャーンの演説になる)
どうやったら三人称芝居に変換できるのか?
それが、創作なのである。
三人称の物語というのは、
一人称の思いを、どうやって三人称芝居に変換するか、
というやり方の模索と、その成否なのである。
作者が時々、作品にコメントすることがある。
三人称芝居とは全く違うことを言ったりする。
それは、その三人称芝居に変換する前の、
個人的一人称の、思いだったりするのだな。
個人的体験と、個人的思いをベースにするのはいい。
しかしそれは、客観的ではないことを知ろう。
夕日を見て死んだ犬を思い出して泣いた経験があるとしよう。
しかし、「夕日を見て泣く男」というト書きからは、
彼が何故泣いているのか分からない。
これをたとえば、
「残された犬の首輪が荷物の中からふと出てきて、泣く男」
のように変換すれば、
彼が死んだ犬を思い出して泣いていることは、伝わる。
夕日は犬と関係ない。
(夕日という美しさを捨てたので、的確な変換かどうかは不明。
問題はこのあとどういうストーリーになるかだ)
個人的体験と個人的思いは、三人称では伝わらない。
それだけを気をつけ、
あなたは三人称芝居を組めばよい。
2015年12月09日
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