蒙(もう。暗いところ)を啓く(ひらく。明るくする)
と書いて啓蒙だ。
ある種のことを書くことは、
どうしたって何かしらの啓蒙になる。
啓蒙は、思想や宗教などの大袈裟なことではない。
ねえ知ってる?と書き出すだけで、
皆の知らない知識の披露だ。それも小さな啓蒙だ。
ついでにここも、
脚本について、恐らく皆が知らないだろうことについて、
あるいは知ってるかも知れないが深く知らないことについて、
啓蒙活動しているようなものだ。
ストーリーは啓蒙か?
たとえばストーリーの中で、
知らない蘊蓄の披露がある。
知らない世界を知っていく楽しみもある。
それも啓蒙だ。
たとえばナンパ塾塾長を主人公にしたストーリーは、
知らないナンパ術を知れるだろう。
それも啓蒙である。
大昔になるけれど、
江夏豊の野球エッセイに、
「プロ野球を10倍楽しめる方法」とタイトルをつけた編集者は、
かなりの切れ者だと思う。
疑問を浮かべさせて、本のなかに解答がある錯覚を起こさせる。
啓蒙されることを皆は求めて本を買う。
実態は野球エッセイだけなのに。
「さおだけやは何故つぶれないか」も、同じ論法だ。
これは読んでないので、何故つぶれないか解説されているか、
その啓蒙があったかは不明。
(さおだけやを例に経済学を啓蒙する本だったように記憶している)
あるいは昔から、仏教説話なる伝統がある。
仏教の教えを広める為の小話だ。
道徳教育は、こんな話ばっかりだったね。
(主に儒教だったのかなあ。今思えば)
勿論他の宗教でもポピュラーなやり方だ。
聖書は一応物語形式である。
どこかの宗教がアニメ映画を作ったこともあったね。
戦時中はプロパガンダ映画もあった。
思想や宗教の洗脳を、物語ですることは可能だ。
感情移入がうまくゆき、
テーマに心底震えれば、だが。
大体、テーマとは一種の主張である。
本来立ち位置はフラットなのだが、
それが存在することそのものが主張と取られる。
あるいは、未熟な作者は、
自分の主張を物語のなかに塗り込め、
世間を俺好みに変えようという野望を抱いているものだ。
おそらくだけど、
主張をまずしようと思って、
物語を書いてもうまくいかない。
世の中の「これを買ってくれ」と主張する殆どのCMが、
なるべくなら見たくないことと同じだ。
物語とは、気になるシチュエーションや、
感情移入する登場人物がいて、
思わず引き込まれてしまう展開があるものを言う。
その冒険に見いっているうちに、
最後まで見たときに、こういう意味がこの話にはあったのだ、
とあとで思うことを言う。
決して、啓蒙されようとして啓蒙されるのではない。
面白い話を見たら、
結果的に啓蒙されていたのである。
順番が、逆なのかも知れない。
啓蒙してやろうとして書いた話は、反発される。
面白い話で、なおかつ裏に啓蒙がある話だけが、指示される。
結果的に啓蒙がある。
最初に啓蒙ありきではない。
でも、最初にテーマが定まらないと、
全体の設計は出来ない。
矛盾のループが回っているのである。
(僕の経験論だと、テーマは無意識にあり、
意識は面白い話を書こうとだけ努めているとき、いい話になる)
2015年12月10日
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