2015年12月10日

ストーリーは、蒙を啓くのか

蒙(もう。暗いところ)を啓く(ひらく。明るくする)
と書いて啓蒙だ。
ある種のことを書くことは、
どうしたって何かしらの啓蒙になる。
啓蒙は、思想や宗教などの大袈裟なことではない。
ねえ知ってる?と書き出すだけで、
皆の知らない知識の披露だ。それも小さな啓蒙だ。

ついでにここも、
脚本について、恐らく皆が知らないだろうことについて、
あるいは知ってるかも知れないが深く知らないことについて、
啓蒙活動しているようなものだ。

ストーリーは啓蒙か?


たとえばストーリーの中で、
知らない蘊蓄の披露がある。
知らない世界を知っていく楽しみもある。
それも啓蒙だ。

たとえばナンパ塾塾長を主人公にしたストーリーは、
知らないナンパ術を知れるだろう。
それも啓蒙である。

大昔になるけれど、
江夏豊の野球エッセイに、
「プロ野球を10倍楽しめる方法」とタイトルをつけた編集者は、
かなりの切れ者だと思う。
疑問を浮かべさせて、本のなかに解答がある錯覚を起こさせる。
啓蒙されることを皆は求めて本を買う。
実態は野球エッセイだけなのに。
「さおだけやは何故つぶれないか」も、同じ論法だ。
これは読んでないので、何故つぶれないか解説されているか、
その啓蒙があったかは不明。
(さおだけやを例に経済学を啓蒙する本だったように記憶している)


あるいは昔から、仏教説話なる伝統がある。
仏教の教えを広める為の小話だ。
道徳教育は、こんな話ばっかりだったね。
(主に儒教だったのかなあ。今思えば)
勿論他の宗教でもポピュラーなやり方だ。
聖書は一応物語形式である。
どこかの宗教がアニメ映画を作ったこともあったね。
戦時中はプロパガンダ映画もあった。

思想や宗教の洗脳を、物語ですることは可能だ。
感情移入がうまくゆき、
テーマに心底震えれば、だが。

大体、テーマとは一種の主張である。
本来立ち位置はフラットなのだが、
それが存在することそのものが主張と取られる。

あるいは、未熟な作者は、
自分の主張を物語のなかに塗り込め、
世間を俺好みに変えようという野望を抱いているものだ。


おそらくだけど、
主張をまずしようと思って、
物語を書いてもうまくいかない。
世の中の「これを買ってくれ」と主張する殆どのCMが、
なるべくなら見たくないことと同じだ。

物語とは、気になるシチュエーションや、
感情移入する登場人物がいて、
思わず引き込まれてしまう展開があるものを言う。

その冒険に見いっているうちに、
最後まで見たときに、こういう意味がこの話にはあったのだ、
とあとで思うことを言う。

決して、啓蒙されようとして啓蒙されるのではない。
面白い話を見たら、
結果的に啓蒙されていたのである。

順番が、逆なのかも知れない。


啓蒙してやろうとして書いた話は、反発される。
面白い話で、なおかつ裏に啓蒙がある話だけが、指示される。

結果的に啓蒙がある。
最初に啓蒙ありきではない。


でも、最初にテーマが定まらないと、
全体の設計は出来ない。
矛盾のループが回っているのである。
(僕の経験論だと、テーマは無意識にあり、
意識は面白い話を書こうとだけ努めているとき、いい話になる)
posted by おおおかとしひこ at 16:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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