仏師は、木の中に仏があるのが見えていて、
それを彫り出すと仏像になるのだという。
僕は、お話も同じようなものだと思う。
既に出来ている話を、
自分のなかから彫り出すのが、
執筆という苦しい作業なのだ。
既に出来ている、とは、
プロットが出来ているという意味だけでなく、
主人公や他の登場人物の、
悲しみや苦しみや喜びや、
運命の急転や怒濤の展開や、
テーマの暗示や結末に至る見事な展開まで、
既に出来ているということである。
自分の頭のなかで。
僕らはそれを、仏師のように、
丁寧に彫り出すのである。
書きながら作ってはいけない。
予定にないことは多少あるが、
おおむね予定通りに進めることだ。
脱線は構わない(あとでカットするかも知れない)。
本線に戻ってきさえすれば。
書きながら新しい展開を思いついたら、
既に出来ている話と比較して、
それを追加したバージョンのほうがより面白くなるなら、
話を上書きする。
元のシンプルな味わいと、今の複雑なのと、
どちらがより面白いか、冷静に比較するのはベテランでも難しい。
両方のバージョンの骨格を、
結末までペラ一枚に正確に書き出して、
両者を比較するぐらい慎重にやるとよい。
問題は部分ではなく、全体としてどちらがよいかである。
部分の改良だけを見ていると近視眼になる。
常に全体に対しての部分の意識を持つべきだ。
あなたはどれくらいの精度で、
自分の話がイメージ出来ているのか。
プロットなんてただのメモだ。
もっと詳しい精度で見えていなくては、
話なんて書けない。
キャラ設定なんてただのメモだ。
自在に動き、勝手に喋り出して、
登場人物二人そこに置けばいつまでも喋りあうようでなければ、
話なんて書けない。
場所の力を借りることもある。
シズるシチュエーションを思いだそう。
登場人物たちが勝手に喋るぐらいになったら、
誰がどんな目的で動くのかを、
点呼してみよう。
もし最初の目的が途中で変わる人物がいるのなら、
特別に点呼しておこう。
最終的に、誰がどういう形で目的を叶えるのか点呼だ。
全員が叶えるのか、一部かも点呼だ。
志半ばで死ぬかも点呼だ。
点呼は大事だ。漏れがあることを気づかせてくれる。
どんな喜びや悲しみや苦しみがあるか、
それぞれの人物に寄り添おう。
どの人物にも愛着があり、
嫌いな点や憎悪もあるだろう。
全員が好きならやさしい世界だが、
やさしい世界は物語ではない。
何故なら固定された世界だからだ。
物語とは、ある世界が何か(誰か)によってかき回され、
それぞれの目的を果たすために世界がかき回され、
最初とは別の世界に安定することをいう。
最初はどういう世界だったのか、
それが動くきっかけは何だったのか、
最終的な落ち着きどころはどういう世界か、
その過程において、どういう変化の軌跡や仮の落ち着きどころがあるか、
これまた頭のなかで点呼しておこう。
最終的にはやさしい世界に落ち着くとしても、
間では残酷で悲惨で憎しみあうことが、起こるだろう。
(逆もある。あなたの話しだいだ)
それらの触れ幅が大きいほど怒濤だ。
あまり変化がなければ単調で淡々だ。
西洋では前者が、日本では後者が好まれる。
西洋は濃密で怒濤、日本は古淡や詫びさびかも。
僕は前者でありながら後者へ落ち着くパターンが好きだね。
書いている途中で、
プロットレベルのメモでは足りなくて、
より詳細な段取りのメモが必要になることもある。
特に二幕前半、三幕の長いクライマックス。
それはその場で流れをつくり、
仏の詳細を決めていけばいい。
執筆は苦しい。
その仏を彫り出すのは苦しい。
その仏が、仏として世界にありたいと言い、
自分が、その仏が世にあるべきだと思うからこそ、
苦しい執筆に耐えられるのだと思う。
これ面白いのかなあと不安になったり、
書けたけどどうなんだろう、となったりするのは、
その不安は当たる。
それは、面白くなるまで書き直すか、
全部捨てて新しく面白い場面を作り直すしかない。
そもそもその話は面白くなかった、
と、書きはじめてからようやく全貌が見えて、
仏を世に出す価値を見失うときもある。
挫折だ。
それはあなたの目に問題がある。
面白い話を見る目が、何かによって曇るということだ。
何かとはたとえば、
自分のすることに甘いとか、
キャラに夢中になって話が冷静に見えてないとか、
最初の展開に夢中になってそれ以降のつまらなさが見えてないとかだ。
自分の目が曇りがちだとしたら、
それは鍛え方が足りない。
最初の熱が冷めるまで待ち、
それでもなお苦しい執筆をするべきか、検討し直すといい。
オススメの方法は、そんな話のストックを複数持つことだ。
構想を練る話が複数あり、
キャラクターが別々にいて、
事件や解決の過程も複数あって、
という状態を自分の中につくることである。
一本だけのストックは、見る目を曇らせがちである。
見る目というのは、相対的な比較だからだ。
ひとつしか見てないとすぐ近視眼になる。
あなたはつまり、
複数の材料の丸太が、工房に置いてある仏師なのである。
日々、その木の中の仏を想像して、
詳しい精度でその中の仏を見るのである。
メモも取るし、調べものもするし、
試しに全体像や、部分のスケッチをすることもある。
横から見たり後ろから見たりもするだろう。
そのスケッチをすることもある。
その丸太たちの中のどれかを選んで、
あなたはある日彫り始めるのだ。
彫り始めたら、一気にやることだ。
人間苦しいことを避けたがるからだ。
経験上、一ヶ月以内におおむね決着をつけること。
それ以上の長期的集中は、訓練しないと難しい。
(短編なら一日で決着をつけることが望ましい。
多くて三日)
なにがなんでも完成させることだ。
途中でぐだっても、結末が微妙でも。
あなたは目が曇る性質かどうかを、自覚するのである。
どれほどの仏を想像していたか、
出来上がった仏との差を検証しておくことだ。
目がないのか、腕がないのかは、
どちらか分からない。自覚することだ。
一番ダメなのは、彫りはじめてやめてしまうこと。
それならまだ彫りはじめないほうがまし。
途中でやめるのなら、その原稿を全て引き出しの中にしまって鍵をかけ、
最初から彫り始めることをオススメする。
白紙に再び書きはじめることで、
語りが洗練させることはよくあることだからだ。
最後まで書くことは、とても苦しい。
苦しくない作家はいない。
それを救うのは、
この仏を形として世に出す、使命感のようなもののような気がする。
価値があるからこそ、仏を世に出す。
その気持ちがないと、苦しみに耐えるのは出来ない。
大抵のアマチュアが最後まで書けないのは、
仏が曖昧にしか見えていないか、
たいしたことない仏が、価値あるものだと目が曇ったか、
そもそもその仏の価値を見もせずやりはじめたか、
だろう。
途中で物語を見失う、
途中で情熱が冷める、
途中でつまらなさに気づく、
などは、そういうことだと思う。
どんな仏が、その木の中に埋まっているのか?
それは地獄の苦しみを伴って、一ヶ月かけて彫り出す価値があるのか?
その仏の詳細は、どれだけ見えているのか?
さいわい、仏師と違うのは、
物語はリライトが出来るということだ。
彫り終えたら、粘土細工に変わるのである。
仏師、うらやましがる。
2015年12月12日
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