2015年12月14日

抜群のアイデアを生かしきれなかった例

「キャプテンウルフ」をようやく見た。
日常と非日常は、
人によって違い、
殆どの人にとっての日常(子育て)こそ、
特殊(軍人)にとっては非日常の冒険なのだ、
という抜群のアイデアがあった。

ラストの伏線も完璧だ。伏線の見本みたいだ。

しかしこの映画は微妙だ。
何が足りないのだろう。


テーマの不在である。


この映画は、明らかに二幕からつくられている。
お楽しみポイントだ。

軍人にとっての非日常とは、子育てである、
というコメディだから、
これでもかとオモロイシーンが連発する。
(大爆笑の連続、というほどではないが、
ひとつひとつはよく練られている)

しかしだ。
二幕の出来を追求したがため、
この映画から、一幕と三幕が抜け落ちた。
すなわち、主人公の変化で描かれる、テーマである。

一見、闘いしか知らない軍人が、
子育てや教育の面白さに目覚めたような感じになっているが、

その子育てや教育は、軍隊式に過ぎず、
日常の子育ての面白さではない。

「軍隊式の教育は、間違っている(こともある)」ことに、
彼がぶつかり、彼に足りない、
「普通の成長の仕方」に目覚めたとすれば、
名作になったのに。


チェックしてみよう。
主人公のシェーン(ヴィンディーゼル)には、
欠落や乾きや問題点がない。
つまり、内的問題がないのだ。

これの克服、
あるいは冒険の過程において、
内的変化の必要性を感じ、
自ら変化するということを経ていない。

だから、シェーンは終始一貫して、
軍隊式は素晴らしいという思想の体現者に過ぎない。
なんの変化もしていない。

もっとも、アメリカ映画で、
軍隊式の悪口を言い、それだけではダメなのだ、
ということは難しいかも知れない。
ひょっとしたら初期稿にはそれが書かれていたかもだが、
それが消される方向でリライトされた可能性はある。
おやすみパパと呼ばれて動揺するとか、
軍隊で父を失ったことの告白などが残っているからだ。
父の不在というテーマに、
うまく合致すれば、この映画は傑作たりえたかも知れないのに。


校長のヒロイン化とか、三幕はご都合すぎる。
ああしない終わり方はいくらでもあろうに。
それもこれも、主人公の変化、
あるいはこのストーリーを経る意味が、
何もないからである。

変化なきストーリーは、ただのミッションクリアだ。
そして、ミッションクリアだけなら、ゲームのほうが面白い。
一人称で没入するからである。

これは映画だ。
三人称形式の感情移入で、
主人公の変化によるカタルシスを味あわなくては、
映画を観たことにならない。

ということで、
単なる二流コメディの域にとどまったことが残念である。


他山の石とされたい。
どんな面白い二幕を作っても、
一幕三幕というテーマの軸こそが映画なのである。
(勿論、二幕が詰まらない映画もそれはそれで糞である。
何度かあげているが「かいじゅうたちのいるところ」の二幕は、
あれだけのビジュアルがありながら、糞ほど退屈である)
posted by おおおかとしひこ at 03:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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