「キャプテンウルフ」をようやく見た。
日常と非日常は、
人によって違い、
殆どの人にとっての日常(子育て)こそ、
特殊(軍人)にとっては非日常の冒険なのだ、
という抜群のアイデアがあった。
ラストの伏線も完璧だ。伏線の見本みたいだ。
しかしこの映画は微妙だ。
何が足りないのだろう。
テーマの不在である。
この映画は、明らかに二幕からつくられている。
お楽しみポイントだ。
軍人にとっての非日常とは、子育てである、
というコメディだから、
これでもかとオモロイシーンが連発する。
(大爆笑の連続、というほどではないが、
ひとつひとつはよく練られている)
しかしだ。
二幕の出来を追求したがため、
この映画から、一幕と三幕が抜け落ちた。
すなわち、主人公の変化で描かれる、テーマである。
一見、闘いしか知らない軍人が、
子育てや教育の面白さに目覚めたような感じになっているが、
その子育てや教育は、軍隊式に過ぎず、
日常の子育ての面白さではない。
「軍隊式の教育は、間違っている(こともある)」ことに、
彼がぶつかり、彼に足りない、
「普通の成長の仕方」に目覚めたとすれば、
名作になったのに。
チェックしてみよう。
主人公のシェーン(ヴィンディーゼル)には、
欠落や乾きや問題点がない。
つまり、内的問題がないのだ。
これの克服、
あるいは冒険の過程において、
内的変化の必要性を感じ、
自ら変化するということを経ていない。
だから、シェーンは終始一貫して、
軍隊式は素晴らしいという思想の体現者に過ぎない。
なんの変化もしていない。
もっとも、アメリカ映画で、
軍隊式の悪口を言い、それだけではダメなのだ、
ということは難しいかも知れない。
ひょっとしたら初期稿にはそれが書かれていたかもだが、
それが消される方向でリライトされた可能性はある。
おやすみパパと呼ばれて動揺するとか、
軍隊で父を失ったことの告白などが残っているからだ。
父の不在というテーマに、
うまく合致すれば、この映画は傑作たりえたかも知れないのに。
校長のヒロイン化とか、三幕はご都合すぎる。
ああしない終わり方はいくらでもあろうに。
それもこれも、主人公の変化、
あるいはこのストーリーを経る意味が、
何もないからである。
変化なきストーリーは、ただのミッションクリアだ。
そして、ミッションクリアだけなら、ゲームのほうが面白い。
一人称で没入するからである。
これは映画だ。
三人称形式の感情移入で、
主人公の変化によるカタルシスを味あわなくては、
映画を観たことにならない。
ということで、
単なる二流コメディの域にとどまったことが残念である。
他山の石とされたい。
どんな面白い二幕を作っても、
一幕三幕というテーマの軸こそが映画なのである。
(勿論、二幕が詰まらない映画もそれはそれで糞である。
何度かあげているが「かいじゅうたちのいるところ」の二幕は、
あれだけのビジュアルがありながら、糞ほど退屈である)
2015年12月14日
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