「○○が△△だったとしたら」
というアイデアの種はよくある。
○○が△△だったら、一体どうなる?
という面白さである。
それを思いつくのはとてもいいことだ。
しかし、一体どうなる?で終わらせてしまってはアイデア倒れにすぎない。
どうなるかを詳細に作り上げることこそ、
創作という行為である。
たとえば、
「破天荒な性格の陽気でお騒がせな忍者が、
学園の助っ人に現れたら?」
というアイデア。
これは我らが「風魔の小次郎」をはじめ、
「コータローまかりとおる!」や「伊賀のカバ丸」「さすがの猿飛」
など、当時の学園ギャグ風漫画の、
数々で見られた、同一のアイデアである
(パクリあいという説もあるけど)。
ところが、実現においては、
どれも違うのである。
違う舞台設定、違う登場人物、違う人物関係、
違う目的なのである。
とすると、具体的な展開、台詞、ト書き、構成、
サブプロット、ターニングポイント、焦点、
そして具体的なエピソード、
すべてが全く別物になってくる。
つまり同一のアイデアだとしても、
その実現には無限のバリエーションが、あり得るのである。
忍者が助っ人だったら面白い、
ということを思いついただけでは、
絵に描いた餅だ。
あなたは、具体的なものを全て作らなくてはならない。
同じアイデアに基づく別の解を、
他の人がつくっているかも知れない。
あなたは、具体的な全てを、その人より面白く作り上げなければならない。
ドラマ風魔は、漫画風魔と同一のアイデアに基づく、
いわば別解である。
原作の実写化は、かくあるべきと考える。
○○が△△だったら、一体どうなる?
あなたは、
そのアイデアが最大に生きるような、
面白い具体的な場面を、
全て作らなくてはならない。
アイデア出しと、具体物を作るには、
天と地の開きがある。
アイデアだけあってもダメだ。
あなたは、その最終形までつくって、
はじめて創作したことになるのだ。
「ガソリンを燃焼したら、動力になるぞ」
と思いついたアイデアは、
エンジンを実際につくるまでが創作なのである。
アイデアだけ出して、
エンジンを作り終えた気にならないことだ。
そして、よくあることだが、
どんな魅力的なアイデアだったとしても、
最終形まで(あなたが)作れる保証はない。
そこに途方もない苦労と技術が必要なのである。
アイデアだけ出して、細かいことは下っ端にやらせる、
偉いおじさんがいる。
ああ、この人は具体的な全てをつくる実力のない、
口だけのハッタリ野郎なのだな、
と心のなかで思うことにしている。
2015年12月16日
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