2015年12月25日

【役者論】憑依型の話

役者論のつづきでも書いてみる。
あくまで僕の論だけど。

僕は大きくわけて、役者には三つタイプがいると思っている。
客観型、憑依型、俺型だ。


客観型は、村井がそうだと思う。
自分が自分の外にいて、自分という駒をコントロールするタイプだ。
監督や脚本家も、このタイプだ。
指揮者のように操る感じだ。

おそらくこのタイプの役者は相手役も演じれるし、
二重人格などもすぐに演じる事が出来ると思う。
(子役からやってる役者はこの傾向が強くて、
仕事をした人だと蒼井優とか。
解離気味になることは「てんぐ探偵」の妖怪マリオネットでも取り上げた)

村井は憑依型と呼ばれることもあるけど、
憑依は結果でしかなくて、多分冷静に客観視してるような気がする。
というようなことは大分前に書いて、
後日、本人と飲んだときも、そうだと言ってた。

客観型の役者は、自分は客観する外にいる。


憑依型の役者のアプローチは、メソッド法がわかりやすいかもだ。
そのキャラになりきるために、そのキャラの人生を生きてみるのである。
すんでる場所で実際に住む、同じめしを食ったり過去を経験する、
そのキャラならどうするかを、理屈なり感性なりで、
徹底的に自分に入れていくタイプである。
「台本の中で出番がないときに何をしていたか?」を考える事は、
典型的なこのアプローチである。
(僕は過去を想像させる為に、その人物の過去の十大ニュースを作らせる事がある)

うまくいくと、
脚本家より、監督より、その役のことをよく理解して、
アドリブでそのキャラのように動けるようになる。
たとえば「ブレードランナー」で、
ルトガーハウアーは、おそらく監督より敵のボス、ロイという
レプリカントを理解している、としか思えないアドリブを披露したことで有名だ。

「役に入る」とか「役作り」とか一般の人が思うのは、
このタイプの役者のことではないかと思う。
(だから役者はすごい!別人になれるなんて、なんて言うが、
その為の手順を踏んでいるのだから当然といえば当然だ)

憑依型は、自分は役の中にいる。


「ガラスの仮面」では、
北島マヤがヘレンケラーの役(目が見えず耳も聞こえない)を
憑依させていたため、オーディションでわざと監督が非常ベルを鳴らしたが、
彼女だけが「聞こえなかった」という憑依っぷりを示す場面がある。

憑依は結果であり、理屈でアプローチしても(メソッド法)、
感性でアプローチしても構わない。

どうも日本では感性でアプローチする方が天才的という風潮が強いけど、
感性型は同じパターンでアプローチしてしまう欠点を持ってしまうことがある。


それが俺型だ。

俺型は、スタアにしか許されない方法だ。
キムタクがその典型だ。
何をやってもキムタクだが、キムタクがかっこいいんだからしょうがないよね。
みんなキムタクが見たいんだし。キムタク以外は出来ないんだし。
ジャンルは違うが、ヤザワもそうだよね。

風魔で言えば、
川久保拓司、藤田玲などにその傾向が強い。
既に成功したやり方(結果)を維持して、自己イメージを強化していく。
監督としても既に成功したイメージを借りるわけだから楽なんだけど、
マンネリに陥る可能性は否めない。
武蔵は身内とそれ以外で芝居を変えていく二面性を見せる事で工夫し、
壬生は文脈自体がジェットコースターだったので、藤田の俺型で面白く見れた。
逆に言えば、彼らの新しい面を引き出せなかったのは、勿体なかったところだ。

俺型は、軸足は「俺」だ。役を俺に引き寄せる。
俺との共通点を探し、俺と役を重ねていく。

(川久保と飲むとき、普段のキャラを芝居でも出せよ、
とアドバイスするのだが、イケメン役しかこないのでその幅が難しいのだそうだ。
変態花屋でそれはある程度払拭されたとは思う。
ここを読んでる業界関係者、気のいいにいちゃん役で川久保をどうぞ。
その感じは、拙作「多分、大丈夫」でも一部ご覧になれますよ、と)


役者というのは、自分のパーソナリティとは違う人を演じることである。
どれだけ自分と違うかに、アプローチしてゆく。

たとえ未熟な役者でも、自分に近い役なら演じることが可能だ。
微弱な意味での俺型だね。
古川雄大(霧風)や、田代功児(陽炎)は、地に近い役だ。
(陽炎は地かどうかより、かつてやった日舞の女方が近いけど)

蘭子や姫子は、自分より遠いから最初はうまくいってなかったけど、
後半慣れてきたものである。
僕が彼女達のパーソナリティを脚本に反映した(アテ書き)のもあるけれど。
逆に夜叉姫は最初からリードしてて、後半突き抜けてくれたよね。
メソッド法が効果的に働いたんだね。

追いつめると憑依は強くなることがある。
岡本奈月は、「夜叉姫は難しい、プレッシャーのかかる役だった」
と後日述懐している。
暗闇の公会堂で叫んでいる芝居ばかりだったし、
精神的にもきつかったのではないかなあ。



鈴木は仮面型と、前に書いた。
結果的に憑依させるのだろうけど、
多分客観型のアプローチを取っていると思う。
憑依前を見せないから仮面をかぶられてしまい、
僕はどっちだか結果からは判別できない。
まあ、仮面の下の素顔には僕は興味がないのだけど。

麗羅として現場入りして、そのまま麗羅の仮面を被り続ける事で、
現場のキャラクターを一個にしたのではないかと予想する。
新人のアプローチとしては、賢いやり方だと思う。


成功した役者は、自分なりのやり方でやって来る。
ここを読んでいる役者志望の人がいるかは分からないけど、
自分のやり方や他の可能性を考える上で、
参考になるかも知れない。



さて、ここは脚本家の為のブログだ。
ここから本題。(ようやく?)

登場人物を自分に降ろすとき、どうやってるか?だ。

俺型なら、俺っぽい人物しか書けないだろう。

憑依型をやるなら、設定表や過去を細かく書くことだ。
しかしそれは限られた人物しか降ろせないだろう。
一人がうまく書けても、他の人物はうまく書けないだろう。

つまりは、客観型で降ろすしかないのだね。
憑依させたり、俺型で造形するのはよいけれど、
書く時は、彼らの外の視点にいながら、彼らの中にいるという、
客観型の役作りをしないと最後までうまく書けないと思うよ。



以下雑談。

星占いでは、人間のパーソナリティを4つに分析する。
火:自分中心、派手
地:自分中心、地味
風:他人中心、派手
水:他人中心、地味
だ。

火の星座は、俺型が多いと思う。
(武蔵、蒼井優、織田裕二。仕事したことないけどキムタク)
地の星座は、憑依が多いと思う。
(壬生。彼は俺型を憑依させている可能性あり。夜叉姫)
風の星座は、僕と相性がよくないのか、わりと自由にやらせた方が上手く行く。
(劉鵬、麗羅、紫炎、雷電、絵里奈)
水の星座は、従順な役者が多く、憑依型に仕上げてくる。
(小次郎、姫子、蘭子、霧風、陽炎、妖水)

ある程度あたっている気がする。
客観型は滅多にいない。どっちかというとスタッフ目線だ。
子役からはじめた蒼井優や藤田などは、そういう感じが強かったなあ。

ちなみに鈴木拡樹は僕と相性の悪い風の双子座だった。
おれの彼への理解は、たいしたことないかも知れない。
posted by おおおかとしひこ at 21:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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