故市川準監督が、
最近の若いやつの書く人間が漫画みたいになってて、
リアリティーがない、
と嘆いていたのを直接聞いたことがある。
その時は若手助監督だったので、
漫画じゃない人間ってどういうことですか、
と聞きたかったのだが出来なかった。
僕はずっとそれが引っ掛かってて、時々考える。
以下、少しばかり考えたこと。
おそらく、人間一人に限ると、
リアリティーも漫画チックもそう差はない。
戯画化の範囲だと思う。
もっとも、超能力持ちとかバンパイア設定とか、
時間停止とか、漫画能力じゃないときね。
リアリティーが感じられるのは、
人間関係においてではないか。
たとえば漫画チックな人間関係は、
「嫌な人とどう付き合うか、どう距離を取るか」
なんてのが描かれない。
そういう現実が嫌だから漫画的なものに逃避するのだけれど。
たとえば会社が嫌だがやむなく付き合っているとか、
恋人の嫌な部分をいなしながら付き合っているとか、
人間同士の組織のやり取り(政治的な取引や、無能なミス)に対して、
一々新鮮に反応するのではなく、
日常として慣れたように対応している、
などだ。
大人じゃなければ、近所の嫌なオバサンとのごまかしかたとか、
親戚や先生たち、嫌いなグループとの関係などに、
その日常を描くチャンスがある。
嫌だからことさら改善したり逃避するのではなく、
それらを既に一通りやったのだがどうしようもなく、
それはそれとして生きなければいけないので、
適応してこなしている感じ。
こういうリアリティーは、漫画チックな人間関係にはないと考える。
(探偵みたいなキャラで、やれやれだぜ、と出動する程度ならあるが)
人間は好きなものだけに囲まれて生きていない。
たとえばテレビ番組にはCMが入る。
CMが入ったときのその人物の反応を見れば、
その人の嫌なものとの普段の付き合いかたが見えて来るかもしれない。
人生というものは、常にどこかで小さな不協和音が鳴っていて、
それは理想郷にはないのだろう。
そこで長いこと暮らしてきた感じが、
漫画チックなキャラのリアリティーにはないのかもだ。
そして、モノとの付き合いだけでなく、人もだ。
それは、嫌な部長に媚びへつらう場面のことではない。
露骨に嫌な顔をして避ける反応ではなく、
その人と長いこと、嫌な人だけどそうと気づかれないように、
普通の関係として暮らしている、
という感覚。
そしてそれは個人の中ではなく、人間関係の中で共有されてたりする。
会社に不満を持つがどうしようもない、組合が弱いと考えている部員とか、
人身事故で止まった電車の中にいる人たちの共有する感じとか、
正月に兄は帰るが弟は帰らない感じを、家族で共有してる感じとか。
好きなものとの付き合いだけでなく、
嫌いなものとの付き合い、
なんとなく不満なのだがしょうがないものとの付き合い、
を考えるとよいかも知れない。
勿論、そんなものはわざわざ場面を作って出すものではない。
全然違う文脈の時に、ふと出てくるのだ。
忘年会の場所決めをしてる時にふと会社はどうしようもないことに触れたり、
東横線が止まったときにメトロの対応の話をしたり、
親戚の法事でぽんとそんな話になったりするのである。
しかも解決しない不満だと本人も知っていながら話す、
その語尾に、リアリティーの神様がいるような気がする。
人によってそれを薄汚れたしみとか、積もったもの、
みたいに思うかも知れないけど、
もっと希薄な感じで共有されてる空気みたいな感じ。
(前も書いたけど、横山たかしひろしの漫才で、
アホアホぷーんみたいな漫画チックなボケに、
「お前んとこの家は心配事ないんか!」
と突っ込んだいわばメタなものを見たことがある。
みんな家の心配事を隠して社会関係を構築しているのである。
しかもそれは殊更話題の中心ではなく、次のボケへと焦点はうつる。
リアリティーと漫画チックなものの差とは、こういうことかも知れない)
2015年12月27日
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