広告でこういう表現がよくある。
この街には物語がある。
この商品には、隠された物語があった。
夏物語、はじまる。
部活物語。
「○○物語」と一括できるかも知れない。
(「男女七人夏物語」が原点かな。
遡れば竹取物語や源氏物語があるが)
こういうときの物語は、インチキであると眉に唾をせよ。
我々の扱う物語とは、随分違うからである。
これら○○物語は、
○○について、いくつかのことを語る、
という程度の意味だ。
ものをかたる、という元義どおりなのである。
これは、我々が扱うストーリーに当てはまらない。
精々、エピソード(挿話、インサートシーン)というレベルだ。
写真一枚で済まされない、
何かの語りが必要なレベル、が、
ものをかたる、というレベルかも知れない。
たとえば、
「高校の遠足で、はしゃぎすぎた松尾くんが、
池に落ちた」というのは、我々当事者にとっては大爆笑だが、
それは物語ではなく、エピソードである。
我々が扱うストーリーというものは、
世の中のすべての物語の、わずか一部であることを自覚しよう。
「主人公に欠落や渇きがあり、
とある事件を解決する必要に迫られ、
自ら解決に乗り出し、
その過程で様々な抵抗や障害に遭い、
それらを克服する過程で自分の欠落に向き合い、
克服し、
いよいよ最終決戦で直接対決をし、
解決の瞬間にカタルシスがあり、
主人公の変化こそがテーマを意味している」
ような、
そんな形式の物語は、
すべての物語の、部分集合にすぎない。
映画的物語を、他の違う形式と区別してハッキリとらえているのは、
脚本家だけかもしれない。逆に。
僕の家の近くでいえば、
「武蔵小杉物語」と称して、マンションを売る広告があった。
主人公は誰でどういう事件でテーマはナンジャイコラ、
と文句をつけてもしょうがない。
この広告は、映画的物語というイメージを借りた広告に過ぎず、
武蔵小杉には色んなエピソードがありますよ、
というレベルの、○○物語のレベルなのである。
逆に、日本の伝統である、ものをかたる、という行為は、
映画的物語の形式になっていないのだ。
もっとも、この映画的物語の形式というのは、
ハリウッドをベースに練られてきた、
僕が思う形式ではあるかも知れないが。
映画的物語は、ものを語るだけではダメだ。
ものを語るだけの、○○物語で、
ストーリーを作った気にならないことだ。
逆に、○○物語で、人を騙す事が出来る。
多くの失敗した原作つき映画は、
原作の物語を、○○物語的に写像しただけで、
映画的物語の構造になっていないから、
なんだか詰まらないのである。
(○○物語の形式で、素人である製作委員会を通して大金を出させた、
大きくは詐欺だと言える)
2015年12月28日
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