この二つの見極めこそが、
我々文章書きの上手さを決める。
言わずに伝わることを、わざわざ言うのは野暮だし、
言っても無駄なことを言うのも野暮だし、
言うべきことを言ってないのは駄目という。
上手な文章というものは、
全て漏らさず、なおかつ言わなくても伝わる含みを考慮にいれ、
最小限に書いているものだ。
言外の意味があるから、
物理的な文字数よりも大きな情報量がある、
というべきか。
ところで、
リライトを繰り返すと、
この関係が崩れやすくなる。
たとえばA→Bの2シーンを入れ替えて、
B→Aの順にしたとしよう。
このとき元のBは、
Aで示されたことが前提となっているから、
既にAで示したことは繰り返さないし、
言わないで分かることは含みに入るから、
Bで新しく言うべきことは、
追加で言わなければならないことだけだ。
ところが逆順になってしまうと、
新Bでは、
この時点で言わなければ分からないことを、
新たに足す必要があり、
言わなくても伝わるはずだった殆どのことを書き直す必要がある。
逆に新Aでは、
新Bを見たあとではいちいち言わなくても伝わることを、
全て省略技法にしなければならず、
言うべきことは、新Bが前提で、
新しく言わなければ分からないことだけに限られる。
つまり、部品の入れ替えのように簡単にはいかない。
場合によっては、全面書き直しにならなければならない。
A→X→Bを、
B→X→Aに入れ替えるなら、
同様の原理でXも影響を受けるだろう。
このとき、元BのX前提の部分も修正しなければならず、
新Aでは新Xの影響部も修正しなければならない。
これは極端な例である。
言わなければ分からないことと、
言わなくても伝わることの、
組み合わせや線引きが、
全然変わってしまうことだけを分かればよろしい。
ハリウッドの脚本工学という考え方が、
このようなシーン入れ替えを単純に、
部品の入れ替えのようにやってよい、
としているとは思えないが、
文章というものは部品のように入れ替えが効かないものなのだ。
(もっとも電気回路でも、繋ぎ方間違えたらショートとかあるしね。
プログラミングではどうだろう。
関数や宣言文の仕様変更は、工学的に可換か?
オブジェクト言語はそれを目指した筈だが…)
さて、ことはシーンの入れ替えに限らない。
台詞をひとつ削ることで、
それを伏線としていた全てのことは消失する。
台詞をひとつ足すだけで、
それがないこと前提だった不文律がぎくしゃくする。
カオス理論における、バタフライエフェクトみたいなものだ。
多くのリライトが困難で、
リライトすればするほど失敗に近づくのは、
このようなことが関係していると僕は考えている。
だから理想は、一発書きである。
もしくは、一発書き後に、
色々条件を確認後、
頭からもう一度一発書きだ。
(これは稽古を経て本番に至る、
演劇やバンドにたとえてもいいだろう。
今でも音楽録音では、
パンチイン(部分だけ弾き直して編集する)を、
嫌う傾向にある。だったらきりのいい頭から弾き直したほうがいいよって。
それは直感的にそういうものだと分かっているのである)
それを、部分直しで上手くいくと考えている馬鹿だけが、
文章というバタフライエフェクトを考えず、
リライトを失敗させているのではないかと思う。
で、大抵は、ギクシャクしている脚本が、
苦労の末に出来上がる。
ほんとは、これを一発書きで書き直した方が、
エレガントで流れのいい作品が出来上がるはずなのだ。
今その仮説を示そうとして、285枚の小説を、
先月から白紙に一発書きし直している。
昨日で150枚、そろそろミッドポイントに到達。
仮説が正しかったかは、後日検証したい。
(これを経験すれば、120枚程度の脚本の一発書き直しも、
怖くねえぜ!)
2015年12月30日
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