昨日銭湯の待合室でたまたま、
プロ野球戦力外通知のドキュメンタリーを見てしまい、
一人泣いてしまった。
ドキュメンタリーの力は凄い。
なんでもなんでも本物だからである。
実は、ここにフィクションとの差がある。
この距離感を常に持とう。
ドキュメンタリーの強さは、
それが本当であることだ。
たとえば言葉は、
どんなにダサくて、聞き取りにくくて、分かりにくくて、支離滅裂でも、
本物だ。
これを、
素敵に見えるよう編集したりナレーションで素敵に加工していくのが、
ドキュメンタリーという方法論である。
ダサい言葉は、それまでの前ふりをしておき、「絞り出した言葉は」とふると、
どんなにダサくても真実のリアルな言葉になる。
聞き取りにくい言葉は字幕で抑えるか、マルチキャメラで繰り返し使う。
分かりにくい言葉は、相手の言葉で補ったり、
ナレーションで真意はこうだったと解説したり、
あのときああ言った意味を、後日本人に解説させたりする。
支離滅裂だとしても、編集の順序や、周りのリアクションの挿入で理路整然とさせられる。
僕は二人目の大阪の嫁はんが好きだなあ。
「言いたくないけどおつかれさまでした」は、
ええ子やなあと思った。ぶさいくなのがまたリアル。
いい感じにわがままで、でもええ嫁になると思うわ。
三人目の一番かわいい嫁の、
年収150万しか出ない契約のオファーを迷う旦那への、
「でも金銭的なことだけでしょ?」
と問うリアルな言葉に、リアルな情熱を見た。
リアルだと出るけど、なかなかこういう台詞は思いつかないね。
これらを見ながら、逆にフィクションのあるべき姿を考えていた。
たとえば、言葉の使い方は真逆だ。
簡潔で美しく、聞き取りやすく、分かりやすく、一発で分かるように、
整えられていなければならない。
事情(結婚を前に戦力外通知を受けたことや、
トライアルで一週間声がかからなければあとがないこと)
などは、ナレーションではなく、
作劇で説明する必要がある。
美術セットはもっと分かりやすくつくる。
あんなスタイリッシュな部屋は(表現的に)落ち着かないし、
子供がアンパンマンを持っているのは気が散るのでやめさせる。
表情を撮りやすいようにカメラや人物を配置し、
劇的な瞬間にいい光が当たるように窓を配置する。
あんな着メロももっての他だ。
練習場もリアルだけど一発で分かりにくいから、
もっと分かりやすい練習場を撮る。
(「レギュラー陣が来たら使えないから、
それまでに出なければいけない」を、
きちんと1ショットで分かるように撮っていて、
映像文法をちゃんと分かっているディレクターだなとは思った)
あれがフィクションならば、
どの能力が足りなくて戦力外通知を受けて、
どの能力が買われたことでオファーが来たか、
明らかにすると思う。
つまり、筋にちゃんと理屈をつけて納得させる。
(現実は、ただオファーが来た、
と理屈がないリアルだった)
リアルなドキュメンタリーは、
臨場感はあるけど、ノイズが多く気が散り、
通した理屈がない。
つくりこまれたフィクションは、
整理されていて、ノイズがなく集中させて、
納得できる理屈が一本通る。
フィクションは作者のフィルターを通している、
と言われるのはこういうことだと思う。
つまり、臨場感から一歩離れて、
これはこういうことだ、という整理がされているのだ。
その上で臨場感を足していくのだが、
ノイズを足してそこからどこが必要な情報か分からないようには、
ノイズは足さないものである。
そして、フィクションの最も大事なことは、
「この話になんの意味があったか」があることだ。
すなわち、テーマだ。
このドキュメンタリーは、真に迫り、
リアルな嫁の言葉に泣いてしまったが、
それが、なんの意味があったかについては謎だ。
嫁最高?
だとしたら、フィクションなら、離婚の決断とかで揺さぶるよね。
つまり、フィクションは、
テーマの為にストーリーラインの振幅を使うのである。
ドキュメンタリーは、ただ起こったことに、テーマ(意味)を見いだすこと。
フィクションは、テーマ(最終的に語る意味)の為に、起こることを配置すること。
こういう違いがあるんじゃないかなあ。
僕はドキュメンタリーは否定しないが、
最近のCMがフィクションを忘れて、
使用実感とか自分の言葉で、とかのドキュメンタリー方向に走っているのを、
何もクリエイティブだと思っていない。
テーマは既に決まっているのに、
そこに至るアプローチを決めてないなんて、
フィクションの放棄だからである。
そして、ドキュメンタリーよりも面白おかしいストーリーラインがあることこそ、
フィクションの醍醐味だからだ。
件のドキュメンタリーは、3カップルを追うことで成立した。
ドキュメンタリーは、ひとつの意味を語るには、
ひとつの事実に整理して語ることが困難だから、
ひとつの意味に近い複数の事実を集積して語るものだ。
フィクションは逆だ。
複数のありうべきものを、ひとつに凝縮して勝負する。
もしこれが「戦力外通知」というドラマならば、
ひとつのカップルの破局と再生で、
ありうべき全ての意味を表現出来るようなストーリーラインを考え出すだろう。
トライアウトで頑張れと思い、
嫁にどう言っていいか分からない感じにハラハラし、
一週間連絡が来ないことに心配し、
条件が最高でないことにどう向き合うかを考え、
それを嫁に告げて、自分はどう決断するか言うことに、
ドキドキする。
それは、感情移入そのものだ。
昨日の番組はそういう意味で優れたドキュメンタリーだった。
感情移入は、知らない人にすることである。
僕は彼らに自分の今の立場を重ねて見ていた。
感情移入とは、知らない人の人生の苦しみや決断を見ながら、
自分と重なる部分を感じて、行く末が心配になることである。
そしてその結末に、良かったなあと我が事のように喜ぶことだ。
もし昨日見なかったのなら、
どうにかして入手してみよう。
(良かったので再放送もあると思うよ)
TBS「プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達」(30日後10・00)
で検索すると出ると思う。
毎年やってるらしいので、2015版だ。
ドラマとは、逆境の克服だ。
僕はいつもそう思っている。
ドキュメンタリーのアプローチと、
フィクションのアプローチは、ある時真逆になる。
ちなみに風呂上がりに見たので、湯冷めして今風邪気味だ。
みんなも気をつけよう。ではよいお年を。
2015年12月31日
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