2015年12月31日

ドキュメンタリーとつくりごと

昨日銭湯の待合室でたまたま、
プロ野球戦力外通知のドキュメンタリーを見てしまい、
一人泣いてしまった。
ドキュメンタリーの力は凄い。
なんでもなんでも本物だからである。

実は、ここにフィクションとの差がある。
この距離感を常に持とう。


ドキュメンタリーの強さは、
それが本当であることだ。

たとえば言葉は、
どんなにダサくて、聞き取りにくくて、分かりにくくて、支離滅裂でも、
本物だ。
これを、
素敵に見えるよう編集したりナレーションで素敵に加工していくのが、
ドキュメンタリーという方法論である。

ダサい言葉は、それまでの前ふりをしておき、「絞り出した言葉は」とふると、
どんなにダサくても真実のリアルな言葉になる。
聞き取りにくい言葉は字幕で抑えるか、マルチキャメラで繰り返し使う。
分かりにくい言葉は、相手の言葉で補ったり、
ナレーションで真意はこうだったと解説したり、
あのときああ言った意味を、後日本人に解説させたりする。
支離滅裂だとしても、編集の順序や、周りのリアクションの挿入で理路整然とさせられる。

僕は二人目の大阪の嫁はんが好きだなあ。
「言いたくないけどおつかれさまでした」は、
ええ子やなあと思った。ぶさいくなのがまたリアル。
いい感じにわがままで、でもええ嫁になると思うわ。

三人目の一番かわいい嫁の、
年収150万しか出ない契約のオファーを迷う旦那への、
「でも金銭的なことだけでしょ?」
と問うリアルな言葉に、リアルな情熱を見た。
リアルだと出るけど、なかなかこういう台詞は思いつかないね。


これらを見ながら、逆にフィクションのあるべき姿を考えていた。

たとえば、言葉の使い方は真逆だ。
簡潔で美しく、聞き取りやすく、分かりやすく、一発で分かるように、
整えられていなければならない。

事情(結婚を前に戦力外通知を受けたことや、
トライアルで一週間声がかからなければあとがないこと)
などは、ナレーションではなく、
作劇で説明する必要がある。

美術セットはもっと分かりやすくつくる。
あんなスタイリッシュな部屋は(表現的に)落ち着かないし、
子供がアンパンマンを持っているのは気が散るのでやめさせる。
表情を撮りやすいようにカメラや人物を配置し、
劇的な瞬間にいい光が当たるように窓を配置する。
あんな着メロももっての他だ。

練習場もリアルだけど一発で分かりにくいから、
もっと分かりやすい練習場を撮る。
(「レギュラー陣が来たら使えないから、
それまでに出なければいけない」を、
きちんと1ショットで分かるように撮っていて、
映像文法をちゃんと分かっているディレクターだなとは思った)

あれがフィクションならば、
どの能力が足りなくて戦力外通知を受けて、
どの能力が買われたことでオファーが来たか、
明らかにすると思う。
つまり、筋にちゃんと理屈をつけて納得させる。
(現実は、ただオファーが来た、
と理屈がないリアルだった)



リアルなドキュメンタリーは、
臨場感はあるけど、ノイズが多く気が散り、
通した理屈がない。

つくりこまれたフィクションは、
整理されていて、ノイズがなく集中させて、
納得できる理屈が一本通る。


フィクションは作者のフィルターを通している、
と言われるのはこういうことだと思う。
つまり、臨場感から一歩離れて、
これはこういうことだ、という整理がされているのだ。
その上で臨場感を足していくのだが、
ノイズを足してそこからどこが必要な情報か分からないようには、
ノイズは足さないものである。

そして、フィクションの最も大事なことは、
「この話になんの意味があったか」があることだ。
すなわち、テーマだ。
このドキュメンタリーは、真に迫り、
リアルな嫁の言葉に泣いてしまったが、
それが、なんの意味があったかについては謎だ。
嫁最高?
だとしたら、フィクションなら、離婚の決断とかで揺さぶるよね。
つまり、フィクションは、
テーマの為にストーリーラインの振幅を使うのである。

ドキュメンタリーは、ただ起こったことに、テーマ(意味)を見いだすこと。
フィクションは、テーマ(最終的に語る意味)の為に、起こることを配置すること。

こういう違いがあるんじゃないかなあ。



僕はドキュメンタリーは否定しないが、
最近のCMがフィクションを忘れて、
使用実感とか自分の言葉で、とかのドキュメンタリー方向に走っているのを、
何もクリエイティブだと思っていない。
テーマは既に決まっているのに、
そこに至るアプローチを決めてないなんて、
フィクションの放棄だからである。
そして、ドキュメンタリーよりも面白おかしいストーリーラインがあることこそ、
フィクションの醍醐味だからだ。


件のドキュメンタリーは、3カップルを追うことで成立した。
ドキュメンタリーは、ひとつの意味を語るには、
ひとつの事実に整理して語ることが困難だから、
ひとつの意味に近い複数の事実を集積して語るものだ。
フィクションは逆だ。
複数のありうべきものを、ひとつに凝縮して勝負する。
もしこれが「戦力外通知」というドラマならば、
ひとつのカップルの破局と再生で、
ありうべき全ての意味を表現出来るようなストーリーラインを考え出すだろう。

トライアウトで頑張れと思い、
嫁にどう言っていいか分からない感じにハラハラし、
一週間連絡が来ないことに心配し、
条件が最高でないことにどう向き合うかを考え、
それを嫁に告げて、自分はどう決断するか言うことに、
ドキドキする。

それは、感情移入そのものだ。

昨日の番組はそういう意味で優れたドキュメンタリーだった。
感情移入は、知らない人にすることである。
僕は彼らに自分の今の立場を重ねて見ていた。
感情移入とは、知らない人の人生の苦しみや決断を見ながら、
自分と重なる部分を感じて、行く末が心配になることである。
そしてその結末に、良かったなあと我が事のように喜ぶことだ。


もし昨日見なかったのなら、
どうにかして入手してみよう。
(良かったので再放送もあると思うよ)

TBS「プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達」(30日後10・00)

で検索すると出ると思う。
毎年やってるらしいので、2015版だ。



ドラマとは、逆境の克服だ。
僕はいつもそう思っている。
ドキュメンタリーのアプローチと、
フィクションのアプローチは、ある時真逆になる。


ちなみに風呂上がりに見たので、湯冷めして今風邪気味だ。
みんなも気をつけよう。ではよいお年を。
posted by おおおかとしひこ at 12:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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