2016年01月01日

知り合いをモデルにするとき

新年と関係なく、続けます。

知り合いをモデルにすることはよくある。
その時の注意点。


知り合いをモデルにするといいことは、
リアリティーが出ることだ。

自分の頭のなかだけで考えた、
ご都合主義的で、どこかで見たことがあり、
テンプレにはまりそうな人物に比べ、
反応は生き生きとし、
設定もリアリティーがあり、
どこかいびつなのに、その人の中では首尾一貫している。
頭の中だけではこうはいかない。
もうちょっと丸くしてしまう。
現実はもっとゴツゴツしている。


さて、知り合いをモデルにするとき、
一人からつくるときと、複数を混ぜることがある。
一人だけだとなんか悪い気がして、
ここはこの人、あの部分はあの人、
とこちらの都合によって継ぎはぎさせてもらうこともある。
あまり多くを混ぜないことと、
メインを決めるべきことは、忠告しておく。
何がなんだか分からないキメラをつくることになるからだ。
折角リアリティーの力を借りるのに、
それは勿体ない。
折角入ったいい食材を刻んで煮込んで混ぜてしまうようなものだ。
なるべく立体的にするには、
一方向から光を当てるものである。


主人公をそうするか、脇の人物をそうするか。

主人公の場合、大概モデルは一人で、
複数の人物を混ぜるとしても少しであることが多いだろう。
むしろ自分との融合になると思う。
脇の人物は、その重要度にもよるけど、
何かとそのモデルの融合になったりする。
いずれにせよ、
実在の人物そのものは出てこないだろう。
あくまで元素材でしかない。
単純に名前を変えるだけで、
そのモデルのその人らしさは大分減るものだ。
(実録ものはのぞく)


さて本題。

そうやって作った人物の長所は、
反応がすこぶるいいことだ。
リアリティーがあり、存在感がある。
その人の口調は自分が書ける台詞ではない、
いい意味で意外なことを口走ってくれる。

短所は、それだけなことだ。
つまり、床屋の親父みたいに、
ワンシーン出てお喋りするだけならとても魅力的だが、
複数のシーンに出るときは、
上手く動いてくれないのだ。
正確にいうと、リアクションやお喋りはしてくれるが、
自ら行動する人物になかなかならない。

何故か。
目的を設定していないからである。


脇役以上の重要人物にするなら、
映画的人物の要件を満たさなければならない。
その最低限かつ唯一の条件は、
目的をもつことだ。

知り合いをモデルにしたとき、
その人の人生の目的は、実はよく知らないだろう。
そこまで深い話をする機会もそうそうないし。
親友か恋人か親ぐらい?
それでもなかなか本音までたどり着いていないだろう。
仮にそこまでたどり着いていても、
自分の話の中でその目的を実現しようとされてもなあ、
という不都合が起きることもある。

だから、その人物には、
その話の中での目的(劇的目的という)をこちらから与えてやるべきだ。
頭の中のその人に、「今回は○○目的で」と指示するのである。
どうしてそういう目的かを逆に考え、
その境遇や立場だと、そういう目的になるだろうな、
という場所や文脈に、置いてあげるとよい。

これは、殆ど架空の人物でやることと変わりない。

つまり、架空だろうが実在の人物モデルだろうが、
「境遇から派生する目的がその人物を示し、
行動がその人物を示す。
性格やしゃべり方や考え方は表面的な要素に過ぎない」
という原則は、変わらないのである。

つまり、性格やリアリティーは、ガワだ。
芯は目的なのだ。


リアリティーのあるキャラが欲しいから、
あの人をモデルにしよう、なんてことはよくある。

ただの悪役じゃ詰まんないから、
あの人が悪役だと面白いね、とか、
通りいっぺんのヒロインじゃ嫌だから、
あのアイドルの感じがいいな、とか、
友達のキャラに自分の友達をモデルにするとか。
しかし、ワンシーン書けても、ストーリーにならないことは、
更によくあることだ。

ワンシーンはリアリティー溢れて書ける。
自分の出来ない立ち居振舞いがあって、
独特なものが出来る。
しかしワンシーンまでだ。何故なら、目的がないからだ。


ストーリーとは、複数の人物の目的と行動で記述されるもの
(コンフリクト)であり、
性格や見た目で記述されるものではない。

ところが、シーンはト書きや台詞で書くから、
性格や見た目があれば、とりあえず書けてしまう。

ワンシーンは書けてしまうから、次のシーンで困るのだ。
さっきは書けたのに、今は上手く動いてくれないと。

ストーリーはシーンの連なりだ。
次のシーンでは、前のシーンと違うことをする。
(同じことをするのはストーリーの停滞である)
その変化の一連がストーリーだ。
そのモデルが濃いキャラで、
2、3シーン持つだけの持ちネタを持っていても、
それを消費すればおしまいで、
いずれ生き生きと動かなくなってしまう。

その人がゲストなら、持ちネタ披露ですぐ引っ込んでもいい(出落ち)。
しかし脇役以上の重要人物にするならば、
劇的な造形、
すなわち目的(とそこに至る境遇、バックストーリー)を
与えてあげなければならない。



目的と行動と、ガワの関係を理解するのは簡単である。
みんな言うじゃん。
○○役を△△さんがやれば面白いのではないか?とね。

ダース・ベイダー役を、たとえばビートたけしがやると面白そうだ。
あるいは役所広司でもいい。
村井良大でも面白いぞ。

しかしそれは、ガワを入れ換える着せ替え人形の面白さだろう。
彼がどういう過去を持ち、
何故帝国側につき、何故オビワンと闘い、
何故ヨーダやルークを襲うのかは、
たけしにも役所広司にも村井良大にも関係ないことだ。
そしてあなたという脚本家は、
そこを作らなきゃいけないのだ。

つまり、
実在の人物をモデルにすることは、
役者を決める程度の意味合いである。
たとえば村井良大をモデルにした人物を作ることも出来るが、
彼がその話のなかでどんな目的があるのかが、
問題だ。
そしてその答えは村井からは出てこない。
あなたが作らない限り。

どうであるかより、何をするかが、
劇的人物を決める。
この原則はそういう意味である。


また、実在の人物がモデルの時、
その人物は変化を嫌うことが多い。
あなたが頭の中で動かしやすい、あなたが把握したその実在性を、
あなたが無意識に変えられることを拒否しているからである。
特に好きな人をモデルにするとそうなりがちだ。

ストーリーとは変化だ。
ある人間が、物語を経て成長することだ。
(理想は、別人に生まれ変わること)
実在の人物の人生に介入してしまう気がして、
気後れするのだろう。
その人を変えることに心理的抵抗感があるのである。

その人はもはやその人ではない。
物語に出る以上、あなたの作った人物だ。
目的をどんな形かで果たして、変化する人物である。
最も簡単なのは、名前を全然変えてやること。
たけしみたいな悪役がいいな、ではいつまでたってもたけしだ。
ダース・ベイダーと名を与えれば、
その人物になってゆく。
ガワだけたけしを残せばいい。


前から、僕の好きな人をモデルにとあるキャラクターを造形したのだが、
喋ってはくれても動いてくれなかった。
目的と境遇を与えた途端、動き始めた。
その瞬間から、もはやその人ではなく、その役の人物になった。


役と役者、と考えるといいかも知れない。
あなたが作るのは役者ではなく、
役である。
posted by おおおかとしひこ at 08:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック