新年と関係なく、続けます。
知り合いをモデルにすることはよくある。
その時の注意点。
知り合いをモデルにするといいことは、
リアリティーが出ることだ。
自分の頭のなかだけで考えた、
ご都合主義的で、どこかで見たことがあり、
テンプレにはまりそうな人物に比べ、
反応は生き生きとし、
設定もリアリティーがあり、
どこかいびつなのに、その人の中では首尾一貫している。
頭の中だけではこうはいかない。
もうちょっと丸くしてしまう。
現実はもっとゴツゴツしている。
さて、知り合いをモデルにするとき、
一人からつくるときと、複数を混ぜることがある。
一人だけだとなんか悪い気がして、
ここはこの人、あの部分はあの人、
とこちらの都合によって継ぎはぎさせてもらうこともある。
あまり多くを混ぜないことと、
メインを決めるべきことは、忠告しておく。
何がなんだか分からないキメラをつくることになるからだ。
折角リアリティーの力を借りるのに、
それは勿体ない。
折角入ったいい食材を刻んで煮込んで混ぜてしまうようなものだ。
なるべく立体的にするには、
一方向から光を当てるものである。
主人公をそうするか、脇の人物をそうするか。
主人公の場合、大概モデルは一人で、
複数の人物を混ぜるとしても少しであることが多いだろう。
むしろ自分との融合になると思う。
脇の人物は、その重要度にもよるけど、
何かとそのモデルの融合になったりする。
いずれにせよ、
実在の人物そのものは出てこないだろう。
あくまで元素材でしかない。
単純に名前を変えるだけで、
そのモデルのその人らしさは大分減るものだ。
(実録ものはのぞく)
さて本題。
そうやって作った人物の長所は、
反応がすこぶるいいことだ。
リアリティーがあり、存在感がある。
その人の口調は自分が書ける台詞ではない、
いい意味で意外なことを口走ってくれる。
短所は、それだけなことだ。
つまり、床屋の親父みたいに、
ワンシーン出てお喋りするだけならとても魅力的だが、
複数のシーンに出るときは、
上手く動いてくれないのだ。
正確にいうと、リアクションやお喋りはしてくれるが、
自ら行動する人物になかなかならない。
何故か。
目的を設定していないからである。
脇役以上の重要人物にするなら、
映画的人物の要件を満たさなければならない。
その最低限かつ唯一の条件は、
目的をもつことだ。
知り合いをモデルにしたとき、
その人の人生の目的は、実はよく知らないだろう。
そこまで深い話をする機会もそうそうないし。
親友か恋人か親ぐらい?
それでもなかなか本音までたどり着いていないだろう。
仮にそこまでたどり着いていても、
自分の話の中でその目的を実現しようとされてもなあ、
という不都合が起きることもある。
だから、その人物には、
その話の中での目的(劇的目的という)をこちらから与えてやるべきだ。
頭の中のその人に、「今回は○○目的で」と指示するのである。
どうしてそういう目的かを逆に考え、
その境遇や立場だと、そういう目的になるだろうな、
という場所や文脈に、置いてあげるとよい。
これは、殆ど架空の人物でやることと変わりない。
つまり、架空だろうが実在の人物モデルだろうが、
「境遇から派生する目的がその人物を示し、
行動がその人物を示す。
性格やしゃべり方や考え方は表面的な要素に過ぎない」
という原則は、変わらないのである。
つまり、性格やリアリティーは、ガワだ。
芯は目的なのだ。
リアリティーのあるキャラが欲しいから、
あの人をモデルにしよう、なんてことはよくある。
ただの悪役じゃ詰まんないから、
あの人が悪役だと面白いね、とか、
通りいっぺんのヒロインじゃ嫌だから、
あのアイドルの感じがいいな、とか、
友達のキャラに自分の友達をモデルにするとか。
しかし、ワンシーン書けても、ストーリーにならないことは、
更によくあることだ。
ワンシーンはリアリティー溢れて書ける。
自分の出来ない立ち居振舞いがあって、
独特なものが出来る。
しかしワンシーンまでだ。何故なら、目的がないからだ。
ストーリーとは、複数の人物の目的と行動で記述されるもの
(コンフリクト)であり、
性格や見た目で記述されるものではない。
ところが、シーンはト書きや台詞で書くから、
性格や見た目があれば、とりあえず書けてしまう。
ワンシーンは書けてしまうから、次のシーンで困るのだ。
さっきは書けたのに、今は上手く動いてくれないと。
ストーリーはシーンの連なりだ。
次のシーンでは、前のシーンと違うことをする。
(同じことをするのはストーリーの停滞である)
その変化の一連がストーリーだ。
そのモデルが濃いキャラで、
2、3シーン持つだけの持ちネタを持っていても、
それを消費すればおしまいで、
いずれ生き生きと動かなくなってしまう。
その人がゲストなら、持ちネタ披露ですぐ引っ込んでもいい(出落ち)。
しかし脇役以上の重要人物にするならば、
劇的な造形、
すなわち目的(とそこに至る境遇、バックストーリー)を
与えてあげなければならない。
目的と行動と、ガワの関係を理解するのは簡単である。
みんな言うじゃん。
○○役を△△さんがやれば面白いのではないか?とね。
ダース・ベイダー役を、たとえばビートたけしがやると面白そうだ。
あるいは役所広司でもいい。
村井良大でも面白いぞ。
しかしそれは、ガワを入れ換える着せ替え人形の面白さだろう。
彼がどういう過去を持ち、
何故帝国側につき、何故オビワンと闘い、
何故ヨーダやルークを襲うのかは、
たけしにも役所広司にも村井良大にも関係ないことだ。
そしてあなたという脚本家は、
そこを作らなきゃいけないのだ。
つまり、
実在の人物をモデルにすることは、
役者を決める程度の意味合いである。
たとえば村井良大をモデルにした人物を作ることも出来るが、
彼がその話のなかでどんな目的があるのかが、
問題だ。
そしてその答えは村井からは出てこない。
あなたが作らない限り。
どうであるかより、何をするかが、
劇的人物を決める。
この原則はそういう意味である。
また、実在の人物がモデルの時、
その人物は変化を嫌うことが多い。
あなたが頭の中で動かしやすい、あなたが把握したその実在性を、
あなたが無意識に変えられることを拒否しているからである。
特に好きな人をモデルにするとそうなりがちだ。
ストーリーとは変化だ。
ある人間が、物語を経て成長することだ。
(理想は、別人に生まれ変わること)
実在の人物の人生に介入してしまう気がして、
気後れするのだろう。
その人を変えることに心理的抵抗感があるのである。
その人はもはやその人ではない。
物語に出る以上、あなたの作った人物だ。
目的をどんな形かで果たして、変化する人物である。
最も簡単なのは、名前を全然変えてやること。
たけしみたいな悪役がいいな、ではいつまでたってもたけしだ。
ダース・ベイダーと名を与えれば、
その人物になってゆく。
ガワだけたけしを残せばいい。
前から、僕の好きな人をモデルにとあるキャラクターを造形したのだが、
喋ってはくれても動いてくれなかった。
目的と境遇を与えた途端、動き始めた。
その瞬間から、もはやその人ではなく、その役の人物になった。
役と役者、と考えるといいかも知れない。
あなたが作るのは役者ではなく、
役である。
2016年01月01日
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