演技とは、ヨーイスタートからカットまでの本気である。
演技は本気じゃない、と言うのは素人だ。
演技は本気じゃないと出来ない。
演技は、ヨーイスタートとカットがあると知ってからする、
本気である。
希志あいの主演「スキャンダル」という、
10年に1本クラスの、AVによる「映画」を見た。
林由美香主演の「由美香」、
「秋山祥子×カンパニー松尾」以来の、
演技と本気について考えさせる、
凄まじく人間の本質に迫った「ドキュメンタリー」であった。
演技の下手な人間は、
演技をしようと思うから下手なのである。
そこに書かれた感情に、自分が本気にならない限り、
それは演技だとばれるのだ。
また、単に動物みたいに理性を振り捨てて、
自分の感情を露にしてもそれは演技ではない。
人に見せる為の分かりやすさ、というスタイルを保ったまま、
本気にならなければならない。
技術というのは、それら全て、
体の隅々と、心をコントロールして、
本気になることである。
役者が演技を出来るのは、
監督(または観客)がいるからだ。
誰かに見せるからこそ、体の向きや表情や身ぶり手振りに、
工夫を凝らすのである。
「私はショックを受けた」という演技をするとき、
顔を伏せては伝わらない。
顔を伏せ震える肩で芝居することもないではないが、
ショックを受けた顔こそが、もっとも本気を表現することが出来る。
役者が演技を出来るのは、
ヨーイスタートとカットがあるからだ。
この瞬間だけ本気になるという集中力を持って臨むから、
本番を凄いものに出来るのだ。
「いつカットがかかるか分からないよ」というやり方では、
役者に集中力など生まれない。
カットがあるからこそ、
役者は「もう一回やらせてください」と言うことが出来る。
あるいは、「自分的にはテイク3だが、監督はテイク1がいいという。
ということはテイク1の感じが分かりやすさにおいて勝るということか」
などと微調整をして行くことが出来るのだ。
憑依型と呼ばれる俳優は、
その本気を毎度毎度召喚できる俳優のことだ。
技術の裏打ちは勿論あるが、
体のコントロールより、心の解放が得意なのだと思う。
バレエという演技は、
ぎりぎりまで体をコントロールすることで、
振り付けられた感情表現にたどり着くことをいう。
勿論ダンスでありストレート演技ではないが、
定型に体を嵌めていくという演技技術も勿論ある。
心だけ本気になってはただの人格障害だ。
体だけ本気になったら、ただの嘘(一般的に、演技と思われているもの)だ。
たとえば多くの演技事務所では、
体から教える。
それは、そもそも自在な演技が出来るようには、
人間の体は出来ていないからだ。
人間の体というのは、その人の生き方の蓄積だ。
自分流に歪んでいる。
だからその歪みをただす。
同時に、その役という歪みを自分のなかに作っていく。
歩き方や顔真似や口調を真似るのだ。
漁師の役をやるなら船に乗り、漁師の形を真似るなどだ。
日本のマスコミがやる「役作り」というワードは、
大抵このことを指していて、
一ヶ月籠って役作りしました!凄い!などと馬鹿なことをいう。
知らないことならマスターすべきだ、
という普通のプロのやり方なのにね。
その人の歪みを知れば、その人の気持ちが宿る。
形を作り、そこに魂を呼ぶスタイルだ。
コピー能力が凄い人もたまにいるから、
そういう人は演技が上手いとよく言われる。
しかしそれは嘘であり、その人は本当にはそう思っていない。
その人の外見上をコピーしただけだ。
なんだか哲学的ゾンビの話だね。
対照的に、メソッド演技法は、
心から入る方法だ。
まず本気になり、形をあとで沿わせるのである。
共感能力が高ければ、あとは体で作ればいい。
どちらのアプローチを取るにせよ、
初心者は体が自分の歪みしかないから、
演技事務所ではまず体から作っていき、ニュートラルを教え、
他人の歪みを自分に作る感覚を教え、
それを客観的に見れる目を養わせるのである。
さて、だからこそか、
この演技は嘘っぽいとか、
この演技は相手が好きだから出来たのだ、とか、
この人は本物の漁師に見えるとか、
キモオトコに抱かれる芝居は嫌だろ?とか、
嘘と本気という軸が、
演技にはついてまわる。
それは、世の中に出回っている演技が、
全て100点でないからで、
出来にばらつきが大きいからだ。
世の中には演技の下手な役者もいる。
撮影環境が良好でなく、中途半端なもので誤魔化しているものもある。
だからこそか、
あの演技は本物だ、とか、
あの演技は嘘だ、とか、
みんな見分けなければいけないはめになる。
80年代から続く楽屋落ちは、
演技が虚構のものであり、
真実ではないことを暴露することに楽しみを見いだした。
それも込みで楽しもうぜ、
という雰囲気になった。
ところが、それに慣れると、
「演技とは全て嘘である」という誤解が蔓延するのだ。
そうではない。
演技とは、ヨーイスタートからカットまで、
本気になることである。
ところが、それはお芝居に過ぎない、
本当は今晩の予定を考えているんだろ、
相手役を好きだというのは、プライベートで口説く為だろ、
なんてことを余計に考えてしまう回路が働くのである。
相手役を好きだと言って口説けてしまうのは、
その俳優が未熟な証拠だ。
カットしたら、現実に帰ってきてないのだからね。
若手俳優が付き合うのは、僕は未熟だからだと考えている。
(勿論閉鎖環境下ではそういうことも起こりやすいが)
役者とは、自分の文脈と関係なく、
役の文脈を入れられる入れ物になる人のことである。
だからヨーイスタートからカットまでは、
その役そのものだ。
さてAVだ。
AVは、いつからか、
「演技(嘘)でセックスしているのではなく、
本気でのセックスを見たい」というジャンルになった。
それは、疑似挿入がばれたり、
単体女優の条件などがばらされたりして、
あのプレイも演技だったのか、
と皆が落胆したからである。
(ただでさえ、女のイッた、という演技にたいして、
我々は懐疑的なのである)
ということで、素人のリアルな感じや、
ドキュメンタリータッチのほうが人気を博すことになる。
ハイこっから絡みはじまりますヨーイスタート、
ではないものが、
リアルで本気だと思われるのである。
そういう演技をしてるかもしれない、という疑いをあまり持つこともなく。
たとえば素人ナンパものが、仕込みか仕込みじゃないか、とか、
どうでもいいことが気になってくるのである。
仕込みだ、つまり、AV事務所の子だ、
と分かってしまえば、萎える。
なんだ本気じゃないじゃんと。
その子は本気でプレイしてるかも知れないのにね。
(OLナンパものに、いつもお世話になってる企画系女優が出て、
萎えたことはある。
しかし、事務所からこういう設定でやってこい、
ばれたらダメだぞ、と言われてきた、という設定を脳内で補完すれば、
それはなかなか乙な見世物になる)
ようやく本題だ。
希志あいの「スキャンダル」だ。
企画はこうだ。
ガチでナンパしてそのお持ち帰りを盗撮し、
リアルセックスを覗き見しよう、というもの。
ところがなかなかナンパに引っ掛からないので、
運命の出会いを演出し、
マジで恋人になってゆくアプローチ。
隠しカメラが仕込まれた部屋に連れ込まれ、
ハメ撮りも許す、かなりの恋人モードから、
ラブホテルでの男優乱入ネタバラシに、
物語はクライマックスを迎えることになる。
彼女がガチで騙されたかどうかは分からない。
だとすると彼女の心の闇が心配だ。
今後全部ドッキリではないかと疑心暗鬼になるかも知れない。
元々AV女優になる子は何らかの闇がないとなれないと言うしね。
僕が凄いと思ったのは、
これまで全て盗撮されていて、
彼氏と思い込んでいた彼も男優(志望)だとネタバラシされた瞬間に、
彼女が「これは作品になりますか?」と聞いたことだ。
本当の姿を見せるのではなく、
ここはAV女優として、仕事をすべきかどうか、
監督に聞いたのである。
そこからの展開は、演技というものは何か、
ということについて、考えさせられる出来だ。
さっきまで彼氏と思っていた男に、
「次は現場でな」と強がったり、
「でも一ヶ月楽しかったよ」と言ったり、
かなり揺れたのちに、
結局男優と本気でプレイをするのだ。
それは、ヨーイスタートからカットまで、
本気でなければならないと思う、
彼女のプロ意識がなせる。
「出会って二秒で合体」シリーズに出たときも、
「え、まだ準備が出来てないし、今やるんですか?」
と聞いていたのも印象的だ。
つまり彼女は、ヨーイスタートからカットまでを生きに来ており、
それが不定ならば納得のいかない、
仕事に対して真面目な子なのだ。
全てを放出したとき、
カットはかかっていない。
カットがかかっていないからこそ、
元彼氏のちんぽをニコニコ顔でくわえ、
AV男優から言われた言葉で、
「解散!」と自らカットをかけるのである。
そこに、フィクションとドキュメンタリーが、
混ざりこんでしまっている。
嘘も本気も混じりこんでいる。
何が嘘か、何が本気かは分からない。
ガチで騙したこと自体も全部フェイクかも知れない。
(この点で大論争になるのも分かる)
しかし、本当なのがひとつだけあって、
ヨーイスタートからカットまでの、彼女の絡みなのてある。
どこでスイッチ(自分の中のヨーイスタート)が入るかを見せた、
これは凄まじいまでの演技の記録だ。
どうして人は物語を見るのか?
ヨーイスタートからカットで終わることを知っているからだ。
終わるからこそ、その時間は本気でいられるのである。
人生にはヨーイスタートもカットもないからだ。
彼女は引退を表明したという。
この作品が原因かとネットでは言われ、
彼女がツイッターで否定する一幕もあった。
元々長くやる仕事でもないしね。
願わくば、彼女は演技という神髄を知ってしまったからこそ、
お芝居を続けて欲しいものだ。
優秀な役者は一種の精神障害だと、僕は思うからだ。
お芝居は人を癒す力がある。
観客だけでなく、役者やスタッフもだ。
ヨーイスタートもカットもない我々の人生で、
ヨーイスタートから本気になり、カットで終わる、
素晴らしいものであるからだ。
ということで、演技は嘘だとは僕はつゆほども思っていない。
下手な役者が、演技を嘘にしてしまうだけだ。
僕は小次郎や姫子は、実在したと思っているよ。
2016年01月08日
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