現実より、テンポが早いから。
我々人間には、適応力がある。
環境や状況の変化に対して、
自分をつくりかえる能力だ。
長期的には体をもつくりかえるが、
短期的には脳内をつくりかえる。
ごく短期は体の反射だろうけど、
一日から一週間程度の期間だと、
脳内を変化させて対応するのではないか。
たとえば引っ越したあとの環境に慣れる、
新しい上司に慣れる、
恋人と付き合い始める、
ぐらいの脳内変化だ。
死ぬかも知れない目に遭ったとか、
体が欠損したとか、
覆せないほどのショックを受ければ、
更に大きく脳内(人格や人生観、無意識)も変化してしまうかも知れない。
変化にかかる時間は、
数日から一二週間と見積もろう。
映画は、これを二時間で完了するメディアである。
つまり、リアル人生でかかる変化の、
数倍から数十倍のスピードで起こる変化を、
我々は見ることを娯楽とするのである。
だから、話についていくのに、
架空とはいえ、
脳内を目まぐるしく変化させなければならない。
これが快感になるのが、物語を見る快感なのではないか。
脚本を書いていても小説を書いていても、
リアルにかかるだろう脳内の変化よりも、
数倍から数十倍はやく、
状況や環境が変化していくことを最近自覚した。
この脳の疲れは何だ、考えすぎたのか、
と思っていたのだが、
怒濤の作品内変化に、脳が疲れたのではないか、
と気がついた。
(眠りが浅く長時間。12時間寝ても取れない…)
つまり作品内の環境や状況が変化すれば、
一々その変化を確認し、
脳がそれに適応するまで次の展開を書けない、
という現象。
見る側からすれば展開や進展になる、
変化の快感も、
作る側からすると、その変化の目まぐるしさに、
自分の脳内適応力が追いついていかないときがある、
ということだ。
(それが早すぎるか遅すぎるかは、全体のテンポ感で決まるので、
リライト時に再調整するとよい)
執筆に一ヶ月やそこらかかる、というのも、
リアルに一ヶ月かかる脳内変化の負担ぐらいの、
話を書く、ということではないかと思う。
リアル人生でも、
充実した怒濤の日々を過ごすことがある。
そのときはその変化の快感にドーパミンが出ている時だ。
(たとえば文化祭一週間前から当日、とか。
「うる星やつら2ビューティフルドリーマー」はここを切り取った傑作だ)
勿論それが終わったら、
気の抜けたような日々がやってくる。
脳内変化のお釣りを払う期間だろう。
映画とは、これを二時間でやるようなことである。
素晴らしい映画のエンドロールの余韻とは、
文化祭が終わって撤収したあとの、
終わってしまった感じにとても似ていると思う。
見る側は二時間だけど、
我々書く側は、一ヶ月や半年や一年かけて書く。
それだけ適応に必要な脳内変化を、
一気に二時間で体験するから、
映画は面白いんじゃないかなあ。
逆説的に、そういう変化を体験できないくそ映画なんて、
脳内ドーパミンが全然でなくて、時間の無駄だよね。
小説や演劇や映画や小話などの、
物語が何故面白いのか。
リアル人生よりも早いテンポで、変化を経験するからではないか。
脳内適応ごっこ、が、物語の本質ではないか?
だから、適応変化を楽しめない、
テンポが遅い、早すぎ、変化しない設定だけのものは糞なのではないか?
変化を書く我々は苦しくなって
(次の展開=変化に適応しきれるほど情報を集められず)、
挫折してしまうのではないだろうか?
ハリウッド映画の経験則に、
作品内の期間は二週間にするといい、というものがある。
14日間336時間を二時間に圧縮する、
すなわちちょうどいい脳内適応変化のテンポは、
168倍程度か?
いや、1/3は睡眠時感とすると、112倍程度か?
思ったより、はやいね。
(ちなみに8時間ぐらいカメラを回した二週間程度のドキュメンタリーCMを
作ったことがあるが、これは3分にまとめた。
2004年フジサンケイ広告賞グランプリのナショナルである。
これ、割り算してみたら160で、今ちょっと震えた)
2016年01月09日
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