2016年01月09日

物語は何故面白いのか

現実より、テンポが早いから。


我々人間には、適応力がある。
環境や状況の変化に対して、
自分をつくりかえる能力だ。
長期的には体をもつくりかえるが、
短期的には脳内をつくりかえる。

ごく短期は体の反射だろうけど、
一日から一週間程度の期間だと、
脳内を変化させて対応するのではないか。

たとえば引っ越したあとの環境に慣れる、
新しい上司に慣れる、
恋人と付き合い始める、
ぐらいの脳内変化だ。

死ぬかも知れない目に遭ったとか、
体が欠損したとか、
覆せないほどのショックを受ければ、
更に大きく脳内(人格や人生観、無意識)も変化してしまうかも知れない。

変化にかかる時間は、
数日から一二週間と見積もろう。

映画は、これを二時間で完了するメディアである。


つまり、リアル人生でかかる変化の、
数倍から数十倍のスピードで起こる変化を、
我々は見ることを娯楽とするのである。
だから、話についていくのに、
架空とはいえ、
脳内を目まぐるしく変化させなければならない。
これが快感になるのが、物語を見る快感なのではないか。


脚本を書いていても小説を書いていても、
リアルにかかるだろう脳内の変化よりも、
数倍から数十倍はやく、
状況や環境が変化していくことを最近自覚した。

この脳の疲れは何だ、考えすぎたのか、
と思っていたのだが、
怒濤の作品内変化に、脳が疲れたのではないか、
と気がついた。
(眠りが浅く長時間。12時間寝ても取れない…)

つまり作品内の環境や状況が変化すれば、
一々その変化を確認し、
脳がそれに適応するまで次の展開を書けない、
という現象。


見る側からすれば展開や進展になる、
変化の快感も、
作る側からすると、その変化の目まぐるしさに、
自分の脳内適応力が追いついていかないときがある、
ということだ。
(それが早すぎるか遅すぎるかは、全体のテンポ感で決まるので、
リライト時に再調整するとよい)

執筆に一ヶ月やそこらかかる、というのも、
リアルに一ヶ月かかる脳内変化の負担ぐらいの、
話を書く、ということではないかと思う。



リアル人生でも、
充実した怒濤の日々を過ごすことがある。
そのときはその変化の快感にドーパミンが出ている時だ。
(たとえば文化祭一週間前から当日、とか。
「うる星やつら2ビューティフルドリーマー」はここを切り取った傑作だ)
勿論それが終わったら、
気の抜けたような日々がやってくる。
脳内変化のお釣りを払う期間だろう。

映画とは、これを二時間でやるようなことである。
素晴らしい映画のエンドロールの余韻とは、
文化祭が終わって撤収したあとの、
終わってしまった感じにとても似ていると思う。



見る側は二時間だけど、
我々書く側は、一ヶ月や半年や一年かけて書く。
それだけ適応に必要な脳内変化を、
一気に二時間で体験するから、
映画は面白いんじゃないかなあ。

逆説的に、そういう変化を体験できないくそ映画なんて、
脳内ドーパミンが全然でなくて、時間の無駄だよね。


小説や演劇や映画や小話などの、
物語が何故面白いのか。
リアル人生よりも早いテンポで、変化を経験するからではないか。
脳内適応ごっこ、が、物語の本質ではないか?

だから、適応変化を楽しめない、
テンポが遅い、早すぎ、変化しない設定だけのものは糞なのではないか?
変化を書く我々は苦しくなって
(次の展開=変化に適応しきれるほど情報を集められず)、
挫折してしまうのではないだろうか?



ハリウッド映画の経験則に、
作品内の期間は二週間にするといい、というものがある。
14日間336時間を二時間に圧縮する、
すなわちちょうどいい脳内適応変化のテンポは、
168倍程度か?
いや、1/3は睡眠時感とすると、112倍程度か?
思ったより、はやいね。
(ちなみに8時間ぐらいカメラを回した二週間程度のドキュメンタリーCMを
作ったことがあるが、これは3分にまとめた。
2004年フジサンケイ広告賞グランプリのナショナルである。
これ、割り算してみたら160で、今ちょっと震えた)
posted by おおおかとしひこ at 12:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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