二人称の話をしていたときに、
まとめようと思ってて忘れていたことを思い出したので書いておく。
CMを例にあげるのは、短くて分かりやすいからだ。
CMには、一人称、二人称、三人称がある。
二人称は明らかだ。
カメラ目線で、あなたに訴えかけるものはすべてそうだ。
有名タレントのストレートトークが最もありがちだが、
たとえば市井の人々がただこちらを見ているのに、
なんらかのコピーが入るのも、二人称表現だ。
カメラ目線があるかないかで、あるのが二人称だ。
一人称は、自分がたりの事である。
主語が私もしくは私たち、になるもの。
それは、大抵はいい感じの風景に、コピーやナレーションが延々入るものになる。
高級な絵と音楽か、
やっすいVPになるかの違いであり、
本質は演説にすぎない。
僕は、一人称も二人称も大嫌いである。
それは物語ではなく、一方的な演説、主張だからである。
訴求という言葉も大嫌いである。
それは訴える、という演説と同じベクトルだ。
三人称は、誰かと誰かのお話になる。
私は、も、あなたに、も出てこない。
誰かと誰かの話を見ているうちに、
主人公がまるでじぶんごとのように思えてきて(感情移入)、
その主人公のカタルシスで、
我々が救われるものを言う。
それがどうしてCMになるかというと、
そのカタルシスの感覚が、
商品によってもたらされる感覚と、同じものだからである。
(必ずしも商品によってそのカタルシスがもたらされなくともよい。
むしろ、それは即物的なレベルの低い表現だ)
その商品のことと、我々のことが、重なりあうように、
中心が作られていた。
(例:サントリーオールド「恋は遠い日の花火ではない。」)
00年代前半くらいまでは、
三人称CMがきちんと作られていた。
それは、80年代90年代が、
広告は文化だからであったからだ。
文化であるからにつき、物語による広告を、
きちんと作っていたのである。
今や、CMで文化を作ろうと思ってる人は、
ほんのわずかではないかなあ。
なんでかはしらん。社会学者や経済学者よろしく。
一人称、二人称CMは、わりと誰でも作れる。
才能の差があるとしたら、
起用タレントと、うまいこと言うかどうかの差だ。
あとは金に比例する。
三人称は、特殊な才能がいる。
物語の才能だ。
その構築の仕方については、このブログの深部に触れたまえ。
2016年01月09日
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