2016年01月11日

イコンの不在(SW7批評3)

JJエイブラムス含め、最近の若手監督は、
「物語の状況を一発の絵で理解させる」
ことが下手くそなのではないだろうか?


マルチキャメラの弊害、とも言えるかも知れない。
そのシーンのお芝居を撮るために、
マルチキャメラでアップを切り返せば、
一応は撮れる。
で、フィックスだと詰まらないから、
カメラを動かしたり手持ちにしたりして、
「臨場感」を出す、というスタイル。

これだと、いつまで経っても、
文脈や状況を一枚絵で見せるということを、
工夫しようとしないだろうことは、
なんとなく想像がつく。


シナリオの構造を考えるといい。

あるシーンは、
前のストーリーを受けた、現在の状況からはじまる。
間でなんやかんやあって、
ターニングポイントがあり、状況(焦点)が変わる。
変化後の状況を示して、次へ続く。

勿論省略することもあるけど、
基本的にはこれを愚直に繰り返せばよい。

ということは、
最初は状況を示すヒキから入って、
ヨリなどに繋ぎ、色々あって、
新たな状況を示すヒキで終わるのが、
最もシナリオの意味を正直に示す演出である。

60年代や70年代にはそういう演出がスタンダードだったが、
スピード感や意外性を求めて、
ヨリからはじめたり、
動くカメラではじめたり、
ヒキで終わらずヨリで終わったり、
ヒキを使わなかったり、
ヨリを使わなかったりなどの、
変形演出が増えてきた。

で、そればっかやってるうちに、
基本をすっかり忘れてしまったのではないか?
というのが僕の見立てだ。


ヒキで状況を一発で理解させること。
たとえば、
AとBが対立している、
AとBは仲間である、
AはBを追いかけている、
AはBに反撃している、
などは、とても簡単にヒキで一枚におさめられる。
これは三人になったりもっと多くなっても可能だ。
状況をブロックに分けて構成すればいいからだ。
配置や構図によって、それを示すのが、
状況を一発で理解させる、ということである。

リアリティーを重視するとそこが滅茶苦茶になる。
リアルでは人は状況を立ち位置で示すことはない。
好きな所、たまたまな所に立っている。
二人ならまだどうにかなるが、
三人、五人、十人はもはやカオスだ。
合コンで男対女みたいに座席につけないと、
てんでバラバラの位置に立ってしまい、
立ち位置だけで状況を示すことは出来なくなるだろう。
だから演出とは、そのカオスを整理することから始めるものだ。


リアリティー重視の流れによって、
そのような、「絵と構図で状況を語る」という、
中世の宗教画以来の伝統が、失われつつあるのではないか?
そしてその宗教画のことを、イコンと呼んだのだ。


そしてイコンとは、単なる状況描写だけではない。
ある重要場面をも、一枚絵で示した。
それは勿論ムービーカメラがなかったからで、
一枚絵で示すしかなかったからだ。
「キリストが死んで神が迎えに来る」なんて場面を、
昔は一枚絵で表現したのである。

宗教画に詳しくなくても、
我々日本人には馴染みの深い
「物語の重要場面を、一枚絵で示したもの」がある。
「漫画の見開き」だ。

決め絵とか呼ばれることもある。
日本人は漫画によって、イコンを記憶するのだ。
たとえば北斗の拳には、さまざまな名場面のイコンがある。
シュウが聖帝十字稜の一番上のパーツを背負って昇る場面、
ラオウがレイの秘孔をつき、死兆星が見える場面、
レイが洪水の中水鳥拳で切り裂く場面、
トキが笑って扉を閉める場面。
これらは全て一枚絵で示すことが出来る
(見開きじゃないけど、大ゴマだったことは確かだ)。

あるいは、小ブロックのトップの状況は、
連載時の「扉」によく示されていることが多い。
あるいはコミックスの表紙なども、
その巻の状況をよく示している(ことが多い)。


漫画の決め絵で、映画のイコンを理解するのは、
乱暴ながら大体合っている。

要するに、エイブラムスの演出には決め絵がない。

決めカットはあるけど、
それらは動いているカメラばかりで、
記憶にまったく残らないのだ。

たとえばSW7で、
主人公レイが住んでいるのは、
砂漠に倒れたスノーウォーカーの残骸だ。
こんな絵になるカットなのに記憶に全く残らないのは、
ズームバックして終わっているからである。
たとえばトップカットがそのヒキからはじまり、
中で数字を刻み、部品を磨き、
ヒキでバイクに乗って町へ出る、
などをすれば、
「砂漠に倒れたスノーウォーカーの腹に住む女」というイコンが出来上がったにも関わらずだ。



映画はリアリティーでもあるが、
絵で物語を語るメディアでもある。
決め絵をもって記憶を助けないのは、
そのやり方を知らない未熟と謗られても、文句は言えまい。

要するにエイブラムスは下手なのだ。
特撮監督だけやってりゃいいんじゃね?

絵で物語を語る、ちゃんとした監督にやらせるべきだったよ。

そうすれば、オイこの脚本はねえだろ、
状況を絵で示せるような状況が設定されてないし、
シーン後状況が変化してねえから、
それも絵で示せねえだろ、
と、理論がなくても直感的に気づけたはずだ。
posted by おおおかとしひこ at 15:27| Comment(2) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
すごく興味深い話です。
たしかにSW7には印象に残るシーンがほとんどありませんでした。
序盤の砂漠で爆発をバックに走るシーン(きっとCMでさんざん見たせいです)と、最後のレイとルークの周りをカメラがぐるぐるするシーン(かっこ悪すぎて印象に残りました)くらいです。
わたしはSW7を観たとき、なぜこんなにスケールが小さく感じるんだろうと不思議に思いましたが、それにも合点がいきました。
文脈や状況を一枚絵で見せる、これができていないから、実際にカメラの前にある以外のものを読み取れないせいなんですね。
Posted by とおりすがり at 2016年09月26日 07:16
とおりすがり様コメントありがとうございます。

昔からJJはその傾向のある監督の一人です。
思えば、デススター、森のスピーダーバイク、雪のATなど、
旧三部作は随分と印象に残る絵があったものです。
それらをセイバーのバトルや、ダース・ベイダーやジャバなどの悪役が盛り立てていた。
新三部作はダメダメといいながらも、
ポッドレースやドロイドは記憶に残っている。
ルーカスは絵の才能があったのかも知れません。

ストーリーがベタ神話というのがSWのコンセプトですから、
あとは絵の勝負なのかもですね。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年09月26日 11:02
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